さくらの日






卒業式の後、名残を惜しむ友だちの輪から、千秋はそっと離れた。
修ちゃんは、式には出なかった。
けれど、きっと校内のどこかにはいるだろう。
そう思って、探しに行った。

「修ちゃん!」

果たして、千秋の予想どおり、修ちゃんは校舎の中にいた。
ひと気のない階段の踊り場に立って、外を見ていた。



「どうして分かったんだ?」
ここにいるって。
千秋が声をかけると、修ちゃんは、驚いた顔で振り返った。
「修ちゃんのことなら分かるよ」
何しろ長いつきあいなんだから。
千秋が答えると、
「ウソつけ」
と、修ちゃんは苦笑した。



階段を下りて外へ出ると、校舎のかげで日当たりも悪いのに、桜が咲いていた。
「こんなところに桜があったんだね」
そう言って、千秋は出てきたばかりの裏口を振り返る。
校舎正面の出入り口には、まだ人が大勢いたから、二人は、裏口から外へ出た。
三年間、ほとんど使ったことがなかった。
だから、ここに桜の木があることも知らなかった。
ずっと通ってた学校なのにな、と千秋は思う。
その千秋の隣に立って、
「気の早ぇ奴だな」
と、修ちゃんは目を細める。
二人の他には誰もいない場所で。
咲く花を仰ぐ横顔を、ひとり占めみたいに見ることができて、千秋は、自分は幸せ者だと思った。



「なあ千秋、お前、時間ある?」
学校を出たところで、修ちゃんが言った。
帽子の上に散った桜の花びらを指で払い落としながら。
きれいなのに、勿体ない。
そう言いたいのをグッとこらえて、
「今から?」
と、千秋が聞くと、
「今から」
と修ちゃんは答える。
「あるよ」
と千秋が言うと、修ちゃんは、眉をぎゅっと寄せて、ちょっと考えこんで、

「じゃあさ」

意を決したように言った。



修ちゃんに連れられて、千秋が訪れたのは中学校だった。
二人の通っていた学校。
来るのは中学の卒業式ぶりだ。
「なつかしーな、ここ」
修ちゃんは、体育館裏のフェンスをひらりと飛び越えて、学校の中に入った。
「そうだね」
千秋は頷く。
ここへ来ようと言った修ちゃんの意図が分からないから、とりあえず。
当座は、それくらいしか言うことがない。
ボクってダメだな、と千秋は思った。
こういうときに、気の利いたことの一つも言えない。
ついさっき、修ちゃんのことなら分かる、と千秋は言った。
修ちゃんは、ウソつけ、と苦笑いした。
修ちゃんの言うとおりだ、と今なら思う。
うす緑色の金網越しに、千秋は修ちゃんの顔を見た。
大きすぎる足が、隙間に収まらず、上手くフェンスを登れない千秋を、修ちゃんは引き上げてくれた。

「ごめんね」

天辺に足をかけて、大きな体を縮めた千秋に、
「何でだよ?」
と、修ちゃんは笑う。
謝る必要がないときは、謝らなくていい。
ずっと昔、修ちゃんが千秋に言ってくれたことだ。
だけど、今は謝りたい気分なんだ、と千秋は思った。



「なつかしーな、ここ」

高さ二メートルちょっとのフェンス。
やっとのことで上り下りして、千秋が隣に立つと、修ちゃんは言った。
さっきと同じこと。
でも、今度は周りをぐるっと見ながら言った。
「そうだね」
つられてキョロキョロしながら、千秋も同じことを言う。
あんまり変わってないな、と思った。
体育館裏には、中学のとき、それはもう嫌って言うほど来た。
特に一年のときなんて、ひどいときは日に二度も三度も来た。
主に先輩に呼び出されて。
と言っても、呼び出されていたのは主に千秋ではない。
体こそ大きいけれど、おとなしい千秋は、それほど目立つこともなかった。
呼び出されていたのは、主に修ちゃんで、千秋はいつもそれに付き合った。
来なくていい、と言われることも多かったけれど、千秋は修ちゃんが心配だった。
もちろん、修ちゃんが強いことは知っている。
相手が年上だって、何人いたって、負けることなんてない。
それは分かってる。
でも、
「修ちゃんが痛い思いするのヤダよ」
千秋が粘ると、最後にはいつも修ちゃんが折れた。
千秋が先回りして、喧嘩の終わった後に来たときは、
「俺のやることねーじゃん」
と、いつも不機嫌な顔をして。
「ごめんね」
と、千秋が謝ると、
「謝ることじゃねーよ」
と、頭を掻く。
あの頃は、今はトレードマークみたいな帽子を、修ちゃんはまだ被っていなかった。
体育館裏に上がる土埃と、地面に転がった喧嘩の相手。
その真ん中で、体を小さくして謝る千秋に、何でか赤い顔の修ちゃん。
まるで昨日のことみたいに思い出せる。
千秋が思った、そのときだった。
「なあ、千秋」
修ちゃん言った。
思いがけないことだった。

「タイマン張ろーよ」



「タイマン張ろーよ」

思いがけない修ちゃんの言葉に、千秋は目を丸くする。
「最後だからさ」
冗談めかして付け加えられた言葉も聞こえないくらい、千秋は驚いた。
驚いた後で、ふと、昔もそんなことを言われたな、と思った。
修ちゃんから。
あれは中学のときだ。
そのときも冗談めかして言われた、二人のタイマンは、結局実現しなかった。
中学のときも、高校に上がってからも、千秋は、修ちゃんと喧嘩をしたことがない。
理由は一つ。

「修ちゃんを殴るなんてヤダ」

修ちゃんに痛い思いをさせるなんて嫌だ。
それに尽きる。
だから、今も。
きっぱりとそう言った。
修ちゃんは、千秋がそう言うのを聞いて、ふふっと笑った。
千秋の方に向き直る。
ズボンのポケットに入れていた手を出して、拳を握った。
ああ、殴られるのかな。
千秋は思う。
そして、修ちゃんならいいや、とも同時に。
ずっと昔から、千秋は修ちゃんなら何だって許せた。
きっと、千秋の一番嫌いなあの言葉を言われたって大丈夫だと思う。
修ちゃんなら。
千秋は、拳を握って構えた修ちゃんの前で目を閉じた。
ぎゅっと。
けれど、予想していたような衝撃は。



「お、修ちゃん?」

来なかった。
代わりに、思いも寄らないものが来た。
千秋がうろたえた声を上げると、
「うるせー、黙ってろ」
修ちゃんが言った。
千秋の胸に顔をうずめて。
衝撃を受けたのは、体と心の両方。
修ちゃんが、抱きついてきた。
ほとんどタックルみたいな勢いだったけれど、修ちゃんの腕が、千秋の背中に回っている。
どうしようか、どうしようか、迷った挙句、千秋も抱き返した。
修ちゃんの背中に、そろそろと腕を回す。
抵抗されないことに気をよくして、ぎゅっと抱くと、修ちゃんは、
「バカぢから」
と嬉しそうに。
千秋にしがみつきながら、嬉しそうに言った。



それから、どれくらいの時間、抱き合っていたのか分からない。
千秋の顎の下に修ちゃんの帽子があって、ざらざらと擦る。
帽子のつばで修ちゃんの顔が見えないのは、勿体ないな。
千秋は思う。
千秋は、本当に修ちゃんの顔が好きなのだ。
もちろん、顔だけじゃない。
でも、顔が重要じゃないと言ったら嘘になる。
長いつきあいなのに、未だに向かい合っただけでドキドキすることもあるくらい。
やっぱり、ボクってダメだな、と千秋は思った。
そして、思い出した。
初めて、修ちゃんの顔を間近で、それこそ、鼻先が触れあうような距離で見た日のこと。



二人が中学生になったばかりの頃。
あれも春だった。
ある日の夕方、修ちゃんが千秋の家を訪ねてきた。
事前の連絡もなく、突然だった。
「今晩、泊めてくれ」
千秋の部屋に通されると、修ちゃんが言った。
荷物も下ろさずに、修ちゃんは、辛そうな顔で眉を寄せる。
「何かあったの?」
千秋が聞くと、
「親父が……」
とか、
「俺の言うことなんて……」
とか、修ちゃんらしくもなく、口の中だけでゴチャゴチャ言う。
どうやら、親と喧嘩して、家を飛び出してきたらしい。
千秋が困っていると、部屋のドアがそっと開いて、千秋のお姉ちゃんが顔を出した。
手招きだけで千秋を呼ぶ。
「ちょっと待っててね」
と修ちゃんに言って、千秋は部屋を出た。
廊下でお姉ちゃんから聞いたところによると、千秋の思ったとおりだった。
修ちゃんは、お父さんと喧嘩をして家を出てきたらしい。
修ちゃんのお母さんから電話があった、とお姉ちゃんは言った。
「それでね、今日、修くんウチに泊まることになったから、あんたの部屋で一緒に寝てね」
と言って、お姉ちゃんは階段を下りていった。



部屋に戻ると、修ちゃんは床に荷物を置いて、その横に座っていた。
「泊まっていいって」
お姉ちゃんが、と千秋が言うと、修ちゃんは千秋を見上げて、
「そっか」
と言った。
そして、困ったような顔で笑った。
いつも強気な修ちゃん。
修ちゃんが、そんな風に笑ってみせるのは初めてだった。
「ありがとな」
と言われて、千秋は首を横に振った。
修ちゃんのお母さんから電話があったことは、迷ったけれど言わずにおいた。
修ちゃんとお父さんの喧嘩の理由も、気になったけれど聞かずにおいた。



それから、晩ご飯を食べて、順番に風呂に入った。
客間から持ってきた布団を、自分の布団の隣に敷く。
夜中にトイレに行きたくなるかもしれないから、豆電球だけつけて、横になった。
そうして、横になったけれど、千秋はなかなか眠れなかった。
隣に修ちゃんが寝ている。
そのことで、それだけで、自分がどうして落ち着かない気分になっているのか。
自分でも分からなかった。
確かに、修ちゃんがうちに泊まるのは初めてだ。
でも、修学旅行のときは、もっと大勢だったけれど、同じ部屋で寝た。
そのときは、千秋は皆がまだ騒いでいるのに、一番最初に寝てしまった。
そのときは。
なのに今、眠れない。
時計の針のコチコチいう音が、やたらと耳につく。
目を閉じると、今日初めて見た修ちゃんの顔が浮かんだ。
困ったように笑う顔や、そういえば、千秋の家に来たばかりのとき、あんな辛そうな顔も初めて見た。
いつも千秋を引っぱってくれる修ちゃん。
その修ちゃんのそんな顔を見て、かわいそうと何かを混ぜたような、そんな気持ちで胸が詰まった。
かわいそう、で、かわいい。
でも、できたらあんな顔はさせたくないな。
そう思って、千秋は、ちらりと修ちゃんの方を見た。
そして、驚いた。
眠っているとばかり思っていた、修ちゃんは起きていた。



修ちゃんは枕に頭をのせて、千秋の方を見ていた。
千秋と視線が合うと、ちょっと驚いたように、けれど、黙ったまま千秋を見ている。
修ちゃん。
呼びかけようと口を開いて、なのに、声が出ない。
どうしたの?と言葉が続かない。
並んで敷かれた二枚の布団の上で、修ちゃんが身じろぎする。
ぐっと距離を詰められて、千秋の心臓が跳ねた。
一気に喉が渇く。
「お、修ちゃん?」
出ない声をようよう出して、千秋は修ちゃんを呼んだ。
豆電球の小さな明かりの下、暗いオレンジの光の中で、修ちゃんの顔を見る。
修ちゃんの目って大きいな。
からからに渇いた喉で、焦っているのに、そんなことを考える自分が不思議だった。

「千秋」

修ちゃんが、小さな声で千秋を呼んだ。
「今日、ごめんな、突然」
修ちゃんは手を伸ばして、かけ布団の上に置いていた、千秋の手に自分の手を重ねる。
指先が冷たい。
修ちゃんは、また、辛そうな顔をしていた。

(そんな顔、しないでよ)

千秋の手を撫でる、修ちゃんの指が冷たい。
あんまり冷たくて、切なくなって、思わず修ちゃんの手を握った。

「修ちゃん」

千秋は、修ちゃんの顔を見た。
修ちゃんはちょっと驚いて、ちょっと笑う。
「ボク、修ちゃんのそういう顔見たくないよ」
いつも笑っていてほしい。
辛いとか悲しいとか、痛いとか。
そういう目に、ほんの少しでも遭ってほしくない。
困り事は、全部、ボクが何とかしてあげたいんだ。
そう思って、修ちゃんの顔を見た。
何てきれいな顔をしてるんだろう、と。
この子は、と。
そう思った。



「……あったけー、お前の手」
千秋の気持ちが伝わっているのか、いないのか。
修ちゃんがつぶやく。
それから、呼吸が段々とゆっくりになって、修ちゃんは、そのまま眠ってしまった。



「千秋」
修ちゃんが呼ぶ。
千秋は、抱きしめていた修ちゃんの体を離した。
離された衝撃で修ちゃんがよろける。
「ごめん!」
思わず言った。
そうだ。
そうだった。
どうして忘れていたのか。
ほんの少しでも、辛い思いはさせたくない。
修ちゃんに。
あのとき、初めてそう思って、その後、何度も同じことを思った。
千秋は自分の手を見た。
大きな、大きな手だった。
この手が凶器にもなることを、千秋は知っている。
よろけた修ちゃんは、体勢を立て直すと、千秋の顔をじっと見た。
千秋は、修ちゃんの顔が好きだ。
修ちゃんの大きな目。
癇症に引き結ばれた口。
あの夜、千秋の家に修ちゃんが初めて泊まった夜、千秋は一睡もできなかった。
胸がドキドキして寝つかれず、眠る修ちゃんをずっと眺めていた。
朝が来るまでずっと。
見ても見ても見飽きない。
あれからずっと、今もそうだ。
だから、見ているだけでいいと。
修ちゃんの隣で、見つめるだけで十分だと、ずっと思ってきた。
それ以上のことを望めば、いつかきっと修ちゃんを傷つける。

「ボク、嫌だよ」

修ちゃんが、辛いとか痛いとか。
そう言おうとした千秋の口を、修ちゃんの手がふさいだ。
やわらかい手のひらの、冷たい指先が頬に触れる。
「第二……」
修ちゃんは、小さな声で言った。
そして、第二、何だろうと千秋が思う間もなく、
「何でもねー」
と打ち消す。
修ちゃんは、困ったように笑った。
「うちの制服ブレザーだったな」
そう言われて、千秋は、修ちゃんが何を言おうとしていたのか気づいた。
千秋の口から離れた手が、ゆっくりと胸元を滑る。
やがて離れていく修ちゃんの手を、千秋は取りたくて、でも、取れなかった。
修ちゃんは、何も言わない。
千秋は、何も言えない。
眉を下げて笑う修ちゃんの顔を見て、千秋は、自分は何か間違ったんだろうか、と思った。
ふと、視線を感じて横を向くと、桜の木があった。
中学の頃、毎日のようにここに来ていたときにも、その存在には気づかなかった。
その桜は、百合南高校の校舎裏にあった木のように、まだ咲いてはいなかった。
つぼみばかりの枝の向こう、体育館の陰になったどこかから、中学生の二人が、こちらを見ているような気がした。



修ちゃんが東京に行く、少し前のこと。






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ゆっくり書いていたら、桜が散りきってしまいました。
他の千秋修と同じ二人のつもりですが、ダウトがあったらすみません。












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