ボクが20歳になった年、お姉ちゃんが結婚した。 旦那さんは2度目の結婚で、前の奥さんとの間の小さい子を2人つれてきた。 おかげで家は賑やかになったけど、同時に手狭になって、ボク1人暮らししようかな、って言ったら、お父さんはすぐに許してくれた。 ボクはもう20歳だから、1人でアパートを借りることもできる。 近所の不動産屋のおじさんから、家の近くの良い部屋を紹介してもらって、ボクは即決した。 お父さんと義兄さんに保証人になってもらって、引越しは1週間後。 友達は皆、ボクの行動の速さが意外だって驚いてた。 「別に意外じゃないよ」 ボクは言った。 ボクはもう、1人で何でもできる。 不動産屋のおじさんが、引越しの何日か前に鍵を預けてくれたから、ボクは仕事の終わった後、新しい部屋にコツコツ荷物を運んだ。 帰り道の夜空はいつも澄んでいた。 歩きながら深呼吸すると、ドキドキによく似たズキズキが響いてくる。 高校を卒業して2年目の夏。 東京に行った修ちゃんは、まだ一度もこの街に帰ってきていない。 修ちゃんがこの街を出て行く。 ボクがその話を聞いたのは、卒業式の後だった。 周りの皆はボクはとっくに、たぶん一番最初から知っていると思っていた。 それで、誰もボクに修ちゃんが東京に行くことを教えなかった。 ただ、黒焚連合の幹部の人たちは、修ちゃんからずっと口止めされていたらしい。 同じ会社に入った石川くんから、後でその話を聞いて、ボクは石川くんを殴ってしまった。 別に石川くんが悪いわけじゃないのに、思わず手が出ていた。 ボクの嫌いなあの言葉を聞いたときと、修ちゃんが誰かに殴られたりしたときと、その2つのときを除けば、わけがわからなくなって人を殴るなんて、小学校以来だった。 ボクが自分のしたことにオロオロしていると、殴られた石川くんは怒りもせず、黙ってボクの肩をたたいた。 本当に悪いことをしたと思った。 ボクが石川くんを殴ったのは、工事現場のプレハブの中で、石川くんはよろよろしながら立ち上がった。 「顔洗ってくるわ」 そう言って、出入り口の方へと歩いていく。 「ごめんね!」 ボクが叫ぶと、おれらの方こそ悪かったな、と石川くんは振り返って言った。 鼻の奥がつんとした。 悪いのは修ちゃんだ、とボクは思った。 修ちゃんは、ボクには何も言わずにこの街を出て行った。 ボクたちは、ずっと長い間、他の誰よりも仲良くしていたのに。 修ちゃんはひどい、とボクは思った。 もしも修ちゃんが、本当はボクのことが嫌いでも、黙って行くなんてひどい。 ボクはこんなに修ちゃんが好きなのに、黙って行くなんてひどい。 せめてさよならくらいは言いたかった。 「よお」 ボクが1人暮らしを始めて2年目の夏のことだ。 ある晩、ボクが仕事から帰ってくると、ボクの部屋の前で待っている人がいた。 「久しぶりだな」 その人は片手を上げる。 「修ちゃん…」 ボクはあんまり驚いて、手に持っていたスーパーの袋を落としてしまった。 夢じゃないかと思った。 夢じゃねーよ、と修ちゃんは笑った。 ボクの部屋はアパートの1階で、庭がなくて、部屋の戸が道路に面していて、街路灯の光が、笑う修ちゃんの顔を照らす。 4年ぶりの修ちゃんは、髪の毛が短くなって、トレードマークだった帽子もかぶっていなかった。 「そこの自販機でビール買ったんだ」 そう言うと、足元のビニール袋を手に持って、ボクに見せる。 4年ぶりの修ちゃんは、最後に会ったときよりも少しだけ背が伸びていて、でも、最後に会ったときと変わらない。 とてもきれいな顔をしていた。 ゆっくりと歩いて、ボクに近づいてくる。 修ちゃんに頭を撫でられて、ボクは思わず目をつぶった。 「ぬるくなる前に部屋に入れてくれ」 千秋、と何だか泣きそうな顔で、修ちゃんが笑う。 ボクは、ここが道路だってことも忘れて、修ちゃんに怒っていたことも忘れて、気がついたときには力いっぱい修ちゃんを抱きしめてた。 アパートの鍵を開けて、ボクはお姫さまを招くみたいに修ちゃんを招いた。 修ちゃんの持ってきたビールは、とりあえず冷蔵庫に入れて、ボクは買い置きの方を2本持って台所から戻った。 「ここは1K…か?」 修ちゃんは、周りをキョロキョロ見回しながら腰をおろす。 「うんとね、一応1DKになるみたい」 ボクは修ちゃんの隣に座り、持ってきたビールのうち1本を手渡した。 「サンキュ」 そう言って修ちゃんはビールを受け取り、蓋を開けると一気にあおった。 「乾杯くらいしようよ」 ボクは笑いながら、でも、上下する修ちゃんの喉から目が離せない。 修ちゃんは、何で突然帰ってきたんだろう。 どうして、ボクに会いに来たんだろう。 修ちゃんに聞きたいことがたくさんあるのに、ボクはひとつも聞けず、4年ぶりだっていうのに、まるで昨日も会ったみたいなバカな話ばっかりしてた。 そのうちに、ビールがなくなった。 「千秋、冷蔵庫あっちか?」 言いながら修ちゃんが立ち上がる。 「あっ、ボク取ってくるよ」 「いいよいいよ」 台所にビールを取りに行く修ちゃんの後をついて、ボクも何となく台所に行ってしまった。 「1人暮らしだっていうから、どんな汚ない部屋に住んでるのかと思った」 修ちゃんは、戸を開けた冷蔵庫の前にしゃがんで、ぽつりと言う。 「この中も意外と片づいてるし、こんなもんまで入れてるし」 脱臭剤代わりの、お椀入りコーヒーの出がらしを手に取る。 「うちのおふくろと一緒だ、ホント意外」 「別に意外じゃないよ」 ボクは、修ちゃんの言葉をさえぎるみたいに言った。 しゃがんで、開けっ放しの冷蔵庫の戸を閉めて、背中から修ちゃんを包むみたいにぎゅっとする。 「千秋…」 修ちゃんはボクにぎゅっとされたまま、顔だけをこちらに向けた。 さっきと同じ、笑っているのに何だか泣きそうな顔。 「ボク、もう何でもできるんだ」 1人で、と付け加えると修ちゃんはうつむいた。 ごめんな、と言われてボクも泣きたい気分になった。 夜の台所で、リノリウムの床に膝をついたまま、修ちゃんと向きあう。 「ごめん、ホントにごめん…」 修ちゃんはくり返す。 そのごめんが、黙って出て行って、にかかっているのか、それとも、4年も帰って来なくて、にかかっているのか、ボクにはわからなかった。 「修ちゃんが好きだよ」 ボクが言うと、修ちゃんは、今度こそ本当に泣き出しそうな顔で笑った。 ボクの口に何かやわらかいものが当たる。 キスされたんだ、と気づいたときにはくちびるは離れていた。 台所から部屋の方に戻って、ボクは冷房のスイッチをオンにした。 体中にいっぱい汗をかいていた。 「千秋」 振り返ると、近くに修ちゃんが立っていた。 「ごめんな」 そう言って、抱きついてくる。 好きになって、と言われて、さっきから修ちゃんの何度もくり返している、ごめんの本当の意味に、ボクは初めて気づいた。 「ボクこそごめん、にぶくて」 そう言うと、千秋はにぶくない、と間髪いれず修ちゃんが言った。 その言い方が昔と、自信を持てとボクに言い続けてくれた頃とまるで変わっていなくて、ボクは修ちゃんの背中を撫でた。 お腹の底が熱くなる。 キスをしても修ちゃんは嫌がらなかった。 服を脱がせても。 押入れから布団を出してくると、何だこのでかい布団、と修ちゃんは笑った。 「千秋」 その布団の真ん中に座って、ボクの名前を呼びながら手を伸ばしてくる。 「で、電気、消した方がいいのかな?」 こんなときなのに、ボクは気のきいたことが言えない。 それとも、こんなときだからなのか。 「いいよ、点けたままで」 耳元で修ちゃんの声がする。 昔、県南のパルコたちとケンカをしたとき、キーコにやられた修ちゃんを、家まで背負って帰ったことがある。 隣町からこの街までの道だから、そんなに距離は短くない。 修ちゃんは、もういいからおろせ、って何度も言ったけど、ボクはおろさなかった。 街を見下ろす高台の、急カーブに沿ってガードレールのある道を歩いて、ボクらは帰った。 街灯の白い明かりがぽつぽつと続く長い道。 「お前はやっぱりすごい奴だよ」 背中の修ちゃんがそう言って、あまえるみたいにボクの肩に顔をすりよせた。 ボクの高校時代、他にも嬉しいことはたくさんあったのに、あの夜のことばかりはっきりと覚えている。 そのときと同じ声で、好きだ、と修ちゃんが言う。 ボクのことを好きだと。 ボクはもうわけがわからなくなって、やみくもに修ちゃんの体を抱いて、一緒に倒れるみたいに布団の上に倒した。 次の日の朝、ボクが起きると、もう修ちゃんの姿はなかった。 時計は午前7時。 目が覚めて一番最初にボクが考えたのは、今日は仕事が休みで助かったってことだ。 台所の隅に、空になったビールの缶がまとめて置かれていた。 修ちゃん? 呼んでも返事はなかった。 慌てて向かった家にも修ちゃんはいなくて、おばさんに聞くと、その日、明け方帰ってきた修ちゃんは、始発電車で東京に戻ったという。 「あの子ね、役者になりたいなんて言うのよ…」 突然どういうつもりかしら、とおばさんはちょっと疲れた様子で言う。 何だかいたたまれなくなって、ボクはあいさつもそこそこに、修ちゃんの家を出た。 外に出て、ボクの足は駅に向かった。 始発に乗った修ちゃんが、もうそこにいるわけもないのに、何となく。 駅の改札では、思いがけない人たちがボクを待っていた。 昨日の修ちゃんと現れ方は似てるけど、修ちゃんじゃない。 おはよう、とボクが言うと、マルカクの2人は、よう久しぶり、と近づいてくる。 マルケンがポケットから封筒を取り出して、ほら、とボクに渡した。 「ブルから」 もしかしたら修ちゃんの、なんてボクのあわい期待はあっさり裏切られる。 白い封筒の中には、便箋が1枚入っていた。 「ブルは、修がおれらに口止めしてたこと知らなかったんだってよ」 「修も、もしブルの口からもれるなら、仕方ねえって思ってたんじゃないか」 「仕方ねえ、腹くくろうって」 「言っとくけど、口止めされてたのは、修が街出てくことだけじゃなかったからな」 2人は交互に言って、カクケンがボクの手から封筒を取った。 底の方に引っかかっていた小さな紙を取り出す。 それは、電車の切符だった。 ボクの手に残った便箋には、ブルの大きな字で、 千秋へ この切符はお前にやる どうするかは自分で決めろ 古川修 そう書かれていた。 ボクは思わずカクケンの顔を見る。 カクケンはうなずいて、ボクに切符を握らせた。 そのとき、警笛がパーッと鳴って、電車が駅にやって来るのが見えた。 「何つうタイミングだよ」 マルケンが手をたたいて笑う。 よく晴れた夏の朝、駅の改札でボクを待ってくれていた2人は、顔にも体にも、いっぱい汗をかいていた。 行ってこい、と言われて、行ってくるよ、と答える。 改札口を駆け抜けて振り返らず、ボクは電車に飛び乗った。 |