まだ肌寒い春の初め。 「ヒロミさん!」 珍しく血相を変えて階段をのぼってきた秀吉は、屋上に、ポンや軍司と一緒にいるヒロミの姿をみとめて叫んだ。 「結婚するって本当ですか!?」 誰が? ヒロミさんが。 誰と? 阪東と。 ヒロミは、読んでいた雑誌ごとイスから落ちた。 「本当ですか!?本当なのかよ!?なあ!!」 おそろしい剣幕で詰め寄ってきた秀吉を、とりあえず一発殴って落ち着く。 数日後に卒業式をひかえて、久しぶりに学校に顔を出した日にこれである。 来るんじゃなかったぜ、とため息をつきながら、なおもすがりつく秀吉を自分の体から引き剥がした。 「誰から聞いた?」 雑誌を拾いイスに座りなおして、しつけの悪い後輩は床に正座。 やっぱ本当かよ…と秀吉は、鼻先で揺れるヒロミの靴の先を見つめながら、うらめしげに呟いた。 「あのなあ…」 思わず脱力した。 ずる、と体が再びイスからずり落ちかける。 「どーやって阪東と俺が結婚すんだよ?」 男同士なのに。 言いながら胸が痛んだが、そう言うと、秀吉は両の目を見開いて、そういえば、という顔をした。 こいつらに任せて、4月から鈴蘭は大丈夫なのか? ヒロミでなくても、そう心配したくなる顔だった。 「で、誰に聞いたんだ?」 気を取り直して、ヒロミは尋ねた。 「…本城さん」 「テメいい加減なこと言ってんじゃねえ!」 秀吉が答えたのは、ほんの小さな声だったのに、ポンの名前が出た途端、勢いこんで軍司が立ち上がる。 「ポン…」 ヒロミが目線を険しくして見ると、ポンはサッと目をそらした。 この後バイトだから、と着てきたつなぎの尻で、汚れてもいない手をゴシゴシこする。 ヒロミがおもむろに立ち上がり、一歩踏み出すと、何だよ俺は嘘は言ってないぜ、とまくしたてて横を向いた。 「秀吉」 そんなポンに視線を据えたまま、ヒロミは短く秀吉を呼ぶ。 「何すか?」 やっと正座から解放された秀吉が、おざなりに答えるのに、返事ははいだろ?と地の底から聞こえるような声が響いた。 「いいか、ポンがお前に言ったこと、一字一句間違えねーで正確に俺に伝えるんだ」 「いちじいっく…」 近頃めったにない凄みをきかせたヒロミの迫力に、気負されたように秀吉は復唱した。 記憶をさかのぼり、今朝、通学途中でたまたま一緒になったポンが話していたことを思い出す。 秀吉は、先輩と仲良く世間話をするようなかわいい後輩ではない。 けれど、中学時代から軍司になつかれていたというポンの、何というか…親しみやすさは相当なもので、ついついべらべらと喋りながら学校まで歩いてしまった。 ポンがバイク屋に就職するという話が出たので、思い切って、前々から気になっていたヒロミの進路を聞いてみた。 あれ?お前知らなかったの?とポンは言い… 「ヒロミは横浜に行くんだよ。阪東って知らねえか?俺らのいっこ上の。今、横浜で音楽やってるらしくてさ。そいつのとこに行くんだよ」 嫁に、と。 あのときポンははっきりと言った。 ヒロミは、阪東のところに嫁に行く、と。 「本城さんは、確かにそう言いました」 「ポン、てめえ…」 春の日差しの中をゆらゆら揺れながら、剣呑な顔をしたヒロミがポンに近づいていく。 「いや、だって、ほら、嘘じゃないじゃん。お前最初住むとこねえから阪東のうちに行くって言ってたじゃん…」 「うるせえ!!」 後に、あれは人殺しの目だった、とポンは述懐した。 そして、桐島さんちょっと落ち着いて!と割って入った軍司もろとも。 さすが俺を倒した男だけのことはある、と妙に誇らしい気持ちで、しかし、とばっちりを受けてもつまらない。 秀吉は、早々に退散することにした。 ヒロミが阪東という男と本当はどんな関係にあるのかは、また後日、ゆっくり聞いてやればいい。 できれば2人きりで。 ヒロミさんの家に行くっていうのもアリだな。 そんなことを考えながら、階段をおりかけたとき、 「あっ、秀吉」 秀吉にとっては運悪く、階下からマサが現れた。 探したんだぜ、と言いながら、階段をのぼってくる。 「あれ?桐島さん?」 マサは、屋上にヒロミの姿をみとめると、こう言った。 「そういや、こいつから聞いたんすけど、桐島さん横浜の波止場から船に乗って異人さんのところに嫁に行くって本当ですか?」 晴れわたる3月の空に、秀吉の悲鳴が響きわたった。 |