譬え話をしよう。
桐島ヒロミは考えた。
奈落の底は、地獄の底、あるいは深くて底の知れぬ所。
イメージとしては、暗い穴の中だ。
たとえば、俺がそこに落ちたとして。
ポンやマコ、それに春道なら、きっと引き上げようとしてくれる。
「何やってんだヒロミ」って、あいつらは多分笑いながら。
それがどんなに大変な作業でも、何でもねえって顔をして、当たり前みたいに俺に手を差しのべてくれる。
信じられる。
ポンと春道は、軽口をたたきながら、マコは黙ったまま。
差しのべられた手を、俺は取る。
「悪いな」って、素直に、当たり前みたいに取ることができる。
でも。
ヒロミは更に考えた。
阪東ならどうだろう?
考えながら顔を上げると、板敷の硬い床の上にヒロミと並んで転がって、阪東ヒデトが眠っていた。
両眉の眉根を寄せて、苦悶するような顔で寝ている。
阪東に連れられて、この部屋に来たときには、まだ日も高かったのが、いつのまにか窓の外は真っ暗だった。
ヒロミは立ち上がり、カーテンのない窓の下、阪東のベッドから毛布を取って、裸のまま眠る阪東の体にかけてやった。
そうして、自分もまた、同じ毛布の中にもぐりこむ。
小春日和の昼間が嘘のように、夜になると気温が下がる。
うつ伏せに横たわる阪東に体を擦り寄せると、投げ出されていた腕が持ち上がり、ヒロミの肩を抱いた。
抱きこまれて、阪東と同じ、うつ伏せの体勢になって。
硬くつめたく、埃っぽい床に頬を押しつけ、鼻先の触れあう位置に阪東の顔を眺めながら、ヒロミは考えた。
たとえば、俺が奈落の底にいたとして、阪東ならどうするだろう?
助けようとするだろうか。
いや、しないだろうな。
むしろ、助けようなんてがんばられたら気持ちが悪い。
それに、後が恐い。
どうだろう?
とか言いつつ、実はやっぱり嬉しいのか?
つらつら考える。
毛布の中から片手だけ出して、阪東の顔に触れた。
肉の薄い頬に沿って指を滑らせ、くすくす笑う。
阪東が起きているときには、決して出来ないことだ。
たとえば、暗くて深い穴の底に俺が落ちて。
体を横に、益体もない想像を頭の中で捏ねまわしていたら、やがて、睡魔が襲ってきた。
人間の体は単純に出来ている。
ヒロミは小さなあくびをひとつ。
阪東の睫毛も、小さく揺れた。
この男なら。
瞼が重くなってくる。
大分、ぼやけてきた頭で。
この男なら、上から降ってくるのも、ありかもしれない。
俺が穴に落ちたら。
それで、二人して奈落の底。
してやったりの顔をする、阪東の姿が浮かんだ。
そんなのも悪くねえな、と。
ゆらゆらと眠気の波に揺られながら、ヒロミは思う。
そうして、ヒロミが今しも眠りに落ちようという瞬間。
まるで、バトンタッチでもされたかのように、阪東が覚醒した。
間近に現われた双眸に、我知らずヒロミはささやく。
常の落ち着いた口調とは違う、子どものような口ぶりで。
ささやかれた言葉が、耳を伝って頭に到達し、阪東が完全に目を覚ました頃にはもう、ヒロミは寝入っていた。
どういうつもりだ?
阪東ヒデトは考えた。
阪東が目を覚ますと同時に、まるで入れ替わりのようにヒロミが寝た。
生来のわがままさで、まずそれが気に食わない。
俺を置いて勝手に眠るとは何事だと、ついさっきまで一人寝ていた自分は棚に上げて思う。
いつもならたたき起こすところだろうが、今日は違った。
抱きこんでいた腕をほどいて、床に片肘をついて、ヒロミの寝顔を眺める。
いつになく安らかな顔をして寝ていた。
たたき起こす気が失せたのは、それと、寝入る直前にささやかれた言葉が気になったからだ。
「ならくのそこにおちたらおまえどうする?」
ふにゃふにゃとした声で紡がれた、呪文のような言葉。
漢字変換してみるに、おそらく、「奈落の底に落ちたらお前どうする」。
頭痛が痛い、右に右折のような。
キレ者といっても、しょせんヤンキーだ。
寝息をたてるヒロミの唇にキスをすると、煙草の味がした。
どうするもこうするも。
阪東は考える。
たとえば、俺が奈落の底に落ちたとして。
最初に浮かんだのは、あの人の顔だった。
菅田さんなら、きっと笑う。
「何やってんだヒデト」って、セリフもすぐに浮かんだ。
声も、まるで昨日聞いたように思い出すことができる。
「何やってんだヒデト、さっさと上がって来い」
お前なら出来る、と。
たとえ根拠がなくても、あの人が言うなら阪東は信じられた。
多分、言われれば、空だって飛べたと思う。
もしも、俺が奈落の底に落ちて、菅田さんが見ていてくれるなら、俺は誰の助けもいらない。
絶対に、自力で上がってみせる。
その人のことを思い出すのは、実に久しぶりだった。
最近になって、やっと忘れかけたような気がしていたが、どうやら気のせいだったらしい。
ほんの小さな切欠で。
ほんの小さな切欠さえ与えられれば、記憶はいつでもあざやかによみがえる。
「菅田さん…」
阪東は呟く。
胸はまだ、昨日ついたばかりの傷のように、生々しく痛んだ。
きっと、ずっとこうなんだと思う。
呻きながら横を見ると、ヒロミが寝ていた。
ほんの小さな切欠を、阪東に与えたヒロミだ。
ヒロミは、未だよく眠っていた。
硬い床の上で、身じろぎもせず。
ふと、心配になって肩を揺すると、目を覚ましこそしないものの、眉根を寄せて首を振った。
生きてる。
安堵の息をつくと、今度は、他のことが気になりだした。
こんな寝心地の悪いところでよく寝られると、再びさっきまでの自分のことは棚に上げる。
一瞬、ベッドに運んでやろうかと考え、気まぐれはすぐに打ち捨てた。
硬くつめたく、埃っぽい床の上で、体を寄せあって寝ているのが、自分たちには似合うと思う。
たとえば、俺が暗くて深い穴の底に落ちたとして。
そういえば、ヒロミは阪東に、あの人のことを一度も聞いてきたことがない。
ヒロミのことだから、情報はよそから得ているのかもしれないけれど、阪東の前では。
菅田和志、と名前を口にしたことすらない。
もっとも、名前すら口にしないという点では、阪東も同じだったけれど。
ふいに、かわいそうとかわいいをミックスしたような、そんな気持ちがこみ上げる。
かわいそう、で、かわいい。
阪東は、毛布の中に腕を差しこみ、ぼんやりと暖かい中を探った。
探って、探しあてたヒロミの手を握る。
ぎゅっと握ると、
「ばんどう?」
胸のあたりで小さな声がした。
起きたのか、と思って見れば、ヒロミは寝ている。
眠ったまま、握られた手をそっと握り返してきた。
たとえば、俺が暗く深い穴の底にいたとして。
ヒロミなら、間違いなく手を差しのべる。
「何やってんだ阪東」って、セリフも、あの人と同じくらいすぐに浮かんだ。
でも、あの人のときとは違う。
俺は穴から上がったりしない。
差しのべられたヒロミの手を、思いきり引いてやる。
それで、二人して奈落の底。
たとえ落ちても、「悪くねえだろ」って俺が言えば、ヒロミはきっと笑う。
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