心の底から
あんたは何か勘違いしてる。
あんたが思うほど、俺は、あんたのことなんか好きじゃない。
ただ、ちょっと興味があっただけだ。
見た目が好みで、性格も好みで。
あんたが多分その阪東って奴にしてる、運命みたいな恋とは大違い。
やりてえな、って軽く思ってたら、やれそうな状況が訪れた。
だからやった。
それだけ。
俺とあんたの関係なんてそれだけ。
馬鹿みたいに腰を振る俺の向こうに、あんたはいつも同じ男を見てた。
「ヒロミさん」
俺が呼ぶと、この一年、俺の見てきた顔とは別人みたいに穏やかな顔をして。
ん?と小首をかしげるみたいに俺を見た。
自分が幸せだと、他人にも優しくなれちゃう乙女の法則か。
あんたは最低だ、と俺は思った。
この一年、俺が見てきたあんたが、全部にせものだったように思える。
いったい何だったんだ、俺が。
そりゃ確かに、俺はあんたに本気なんかじゃなかったけど。
それでも、あんたの態度のひとつひとつに一喜一憂してた。
俺の一年を返せ、と秀吉はヒロミを睨んだ。
高校を卒業したら、この街を出るとヒロミから打ち明けられた日のこと。
打ち明けるなんて大層なものじゃなかった。
秀吉が授業をさぼっていつものベンチにいたら、ヒロミが通りかかった。
寝転んでタバコを吸っていた秀吉が体を起こすのと、ヒロミが立ち止まるのが同時だった。
「あんた、卒業できるんスか?」
分かりきっていることを、秀吉は聞いた。
ヒロミならできるに決まっている。
話すために話しかけただけだった。
ヒロミはふっと笑って、ベンチに座る秀吉に近づいてくると、隣に腰をおろした。
「お前は進級できんの?」
分かりきったことを聞いてくる。
秀吉ならできるに決まっている。
(その、何でもお見通しってツラが嫌だ)
秀吉がうなずくと、そうか、と言って秀吉の手のタバコを取り、ヒロミは吸った。
うなだれたまま、視線だけを上げる。
目が合うと、ヒロミは笑った。
口元ではなく、目で笑う。
ヒロミにはめずらしい笑い方。
どうして今日はそんな機嫌がいいのか。
それを聞こうと秀吉が口を開きかけた瞬間、ヒロミの手が伸びてきた。
ヒロミの吸いさしの、その前は自分の吸いさしの、タバコをくわえさせられる。
「このクソ寒いのに外で寝てんじゃねーぞ」
そう言って、ヒロミは秀吉の頭を撫でた。
セットした髪をくずすみたいに。
秀吉が、他の人間には決して許さない行為だ。
(でも、この人には…)
秀吉は、立ち上がったヒロミを見上げて思った。
(この人は、俺がキレたら喜びそうだ)
ヒロミは、秀吉の怒りそうなことをわざとして、楽しんでいるふしもあった。
だから乗ってやらない、と秀吉は思う。
憮然とした後輩にヒロミは苦笑して、ズボンのポケットに手を入れる。
そこから取り出したものを、秀吉の手に握らせた。
「何スか?これ」
「図書室の鍵」
マスターキーでなく、明らかにキーコピーで作られた鍵。
「お前にやるよ」
あそこなら冬でも暖房きくぜ、とヒロミはもう一度秀吉の頭を撫でた。
今度は、くずした髪をなおすみたいに。
「餞別ですか?」
そのまま立ち去ろうとするヒロミの背中に、秀吉は言った。
「馬鹿か」
ヒロミは振り向く。
「餞別は、出てく奴に送るもんだろうが」
俺出てく人、お前送る人。
ヒロミの指が自分の胸、そして秀吉の胸を順に指した。
「卒業したら…この街出るんスか?」
秀吉は手の中で、たった今ヒロミから渡されたばかりの鍵を握りしめる。
「ああ」
ヒロミは何でもないことみたいに頷いた。
だからさよならだ。
次の日、秀吉はヒロミからもらった鍵を使って、初めて図書室に入った。
これを持っていることは、まだマサにも言っていない。
かびくさい広い部屋の真ん中に立って、ぐるりと見渡す。
この部屋で、ヒロミが自分の知らない男にされていたことを秀吉は知っている。
ヒロミはその男とは昔犬猿の仲だったらしく、誰も信じていない噂を、秀吉だけが信じた。
噂は事実だった。
一度抱いたら失望すると思っていたのに、秀吉は失望しなかった。
ヒロミの前だけでは、牙の抜けた飼い犬みたいに。
そうなってしまう自分が死ぬほど嫌で、それでも、誘いをかければ拒まない人を、求めないなんて無理だった。
勝てないケンカにばかり挑みたがる。
そんな性質が、こっちの方面にも発揮されるなんて。
(俺は馬鹿だ)
秀吉は心の底から思った。
昨日、あの後、秀吉はヒロミに何も言うことができなかった。
言ってやりたいことは山ほどあったのに、だ。
一度立ち去りかけたのが、引き返す。
再び秀吉の隣に座ったヒロミの手に、秀吉は自分の手を重ねた。
己にできることなんてその程度。
後輩のプライドを根こそぎ奪ってしまった自覚。
根本から人間を変えてしまった自覚なんて、ヒロミにはきっとない。
あるいは、あって気づかないふりをしているのか。
汗ばんだ秀吉の手を振り払おうともせず、ヒロミはじっとしている。
ヒロミは人目を気にしない。
そして、秀吉も気にしない。
音楽をやるんだ、とヒロミは言った。
どこでやる、誰とやるとは言わなかった。
でも、それだけで秀吉にはぴんときてしまった。
勘はいいのだ。
けれど、そのときだけは、「勘はいい」の前に「無駄に」を付けたい気分だった。
一度拳を交えた仲なのに、あるいはだからこそ、か。
生意気すぎる後輩の秀吉に、ヒロミは優しい。
秀吉と二人でいるときと、他に誰かがいるときとは明らかに態度が違う。
態度が違うのは秀吉もだけれど。
ヒロミに限っては、態度というか、もはや人格が違う。
秀吉は、重ねていただけの手を握り、自分の方へと引き寄せた。
秀吉のすることに抗わず、したいようにさせるのが、せいいっぱいの誠意。
少なくとも、ヒロミの中ではそうなのだろう。
けれど、秀吉にとっては、ただ、人でなし度が上がるだけだ。
ヒロミが自分に優しいのは、一年前、阪東にしたくてもできなかったことをしているだけだ。
秀吉はとうに気づいていた。
本当に、無駄に勘がいい。
高校を出たら、ヒロミはあの男のところに行く。
あの男、と苦く言ったところで、秀吉は顔も知らない。
ヒロミの機嫌がいつになくいいのも、そのせいだろう。
一度はあきらめかけた男が手に入ると分かった今、ヒロミの眼中にはもう秀吉なんてない。
代理はあくまで代理に過ぎないのだ。
秀吉はヒロミを抱きしめ、襟元に鼻をうずめた。
ヒロミの体からは、甘い匂いがする。
初めてヒロミを抱いたとき、彼が香水を付けていることを秀吉は意外に感じた。
今は、意外でも何でもない。
目つきの悪さがカバーしているけれど、実は童顔の桐島ヒロミには似合わない。
外国の酒みたいな匂いだった。
少しも似合わないのに、ヒロミはいつも同じ香水を使っている。
らしくもない執着の後ろには、まるでお約束みたいに同じ男の影がちらついた。
またお前かよ、とうんざりする。
力の抜けた、やけに頼りないヒロミの体を、この場に組み伏せたいような気分になる。
遠からず捨てられる己を、哀れむことだけはするなと思う。
(今この人とタイマンはったら…それでもやっぱり負けるだろうか)
体を少し離して、顔をのぞきこむ。
されるがままのヒロミは、けれど、欠片の動揺もうかがえない顔をしていた。
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