マミーボーイ
ヒロミには、ひとつの原風景がある。
ずっと昔、もう二十年以上も前のことだ。
その頃、ヒロミは保育園に通っていた。
母親はフルタイムで働いていたから、迎えはいつも夕方。
冬には、外はたいてい真っ暗だった。
夕方の保育園では、親の迎えを待つ園児たちの人数が減ってくると、子どもたちをひと部屋に集める。
その方が、世話がしやすいからだろう。
先生につれられて、一階の大部屋に行くと、昼間はバラバラの教室で過ごしている、年の違う子どもたちが思い思いに遊んでいた。
迎えが来た者から帰っていく中、最後まで残るグループの顔ぶれは、毎日ほぼ同じだった。
時間が経つとともに、閑散としてくる部屋の中、いつも最終グループだったヒロミは、同じような境遇の、けれど兄弟のいる友達をうらやましく眺めた。
彼らは、たとえ迎えが最後の最後になっても、決して一人きりにはならない。
一人っ子とは、ずいぶん心細いものだと、幼心に思った。
夕暮れ時、ヒロミを迎えに来た母は、子どもたちの集められている部屋の中庭に面したガラス戸を叩く。
「おかあさん!」
ガラス戸をノックする音に、ヒロミが気づいて声を上げると、扉の近くにいた先生が鍵を開けてくれる。
母はいつもヒロミの頭を撫でてくれた。
息子の頭を撫でながら、小さな声で、「遅れてすみません」と頭を下げる。
保育園の黄色いカバンと黄色い帽子と、何か動物の柄だったような記憶のある布のサブバッグ。
荷物を抱えてヒロミが建物を出ると、母は自転車を引いて、門の前でヒロミを待っていた。
当時はまだ、自動車の運転免許を持っていなかった。
ヒロミの母親は、保育園の送り迎えに自転車を使っていた。
薄いブルーの女乗り、いわゆるママチャリで、荷台には子ども用の座席が取りつけられていた。
ヒロミが母のもとに駆け寄っていくと、前カゴの大きなカバンから、冬場なら、まずジャンパーが取り出される。
毛糸の帽子とマフラー、それに手袋。
全て身につけると、コロコロと着ぶくれして、まるで小さなダルマのような姿になった。
あんまり不格好で、昼間なら我慢できなかっただろうが、友達もみんな帰ってしまった時間では関係ない。
母はヒロミを抱き上げ、自転車に乗せると、最後の仕上げのように、自分のストールでヒロミの全身をすっぽりと包む。
「帰る?」
そして、ヒロミに聞いた。
まるで日課のように、毎日必ずくりかえされる問いだった。
幼児のヒロミは、わけも分からずただ頷くだけだった。
「帰る?」と聞かれて頷く。
母との会話は、いつもそれで終わりだ。
一日離れていた子どもの身としては、物足りない感がなくもなかったが、しかし、寂しくはなかった。
自転車のペダルをこぎながら、母がよく歌を歌ってくれたからだ。
頭ではいろいろなことを考えていても、口を出る前に消えてしまう。
ヒロミの母親は、そんな種類の無口な人だったから、次から次へと歌っている方が楽だったのだろう。
幼い息子を思ってか、歌われるのは童謡がほとんどだった。
暮れかかる空に、かぼそい声で、ぽつぽつと呟くような母の歌が吸いこまれていく。
家並みの向こうに、夏ならば赤い夕日が沈んでいくのを、冬ならば星空をヒロミは眺めた。
側溝の蓋にタイヤが乗り上げたときには、地面に足をついて蹴り出す。
そんなときにも、歌声のとぎれた記憶がない。
ところで、母と二人、自転車に乗っている間、ヒロミには、どうしてもできないことがあった。
やりたいけれど、できないことだ。
二つあった。
一つは、目の前にある母の背中に縋ること。
そして、もう一つは、母と一緒に歌うこと。
甘えたい思いがなかったわけではない。
けれど、母親の細い背中。
硬い骨の上につめたい脂肪をうっすらとまとったような背中を眺めていると、どうしても触れることができなかった。
手を伸ばして、伸ばした手が母に触れる、寸でのところで止まった。
素直に甘えることができない自分を、かわいくない子どもだ、と。
誰に言われたわけでもなく、その頃からヒロミはそう考えていた。
もし、母親に「帰る?」と聞かれて、首を横に振ったらどうなっていたのか、と。
考えるようになったのは、もう少し後になってからのことだ。
保育園を出て、古い家のひしめきあうように建つ町を抜けると、大きな川に当たる。
川にはいつも強い風が吹いていて、軽すぎるヒロミの体は長い橋を渡る間、座席の上で右へ左へと大きく傾ぐのが常だった。
それでも母には縋らない。
可愛げのないわが子に何を思うのか、つめたい空気をふるわせて、橋の上でも母は一人歌い続けていた。
ずっと後、歌を生業とするようになってからだ。
ヒロミは、よくその頃のことを思い返すようになった。
一度も歌ったことなどないのに、毎日耳にしていた歌は、知らない間に体にしみついていたらしい。
一人でいるとき、ふと、無意識に口をついて出る。
そして、ヒロミを狼狽させた。
ロッカーがママの歌なんて、笑い話にもならない。
決して歌わない、と思い、けれど、その決意はすぐに破られる。
母の歌には効用があった。
たとえば、バンドがうまくいかなくて、落ちこんでいるとき。
たとえば、大きな舞台を前に、柄にもなく緊張しているとき。
そんなとき、あの頃母の歌ってくれた、素朴な歌の数々を口ずさむ。
そうすると気分が落ち着いた。
自分の子どもの頃が幸せだったとも、また不幸だったとも、ヒロミは思ったことがない。
それなのに、不思議なことだと思った。
ただ、人前では決して歌わない。
その効用は、あまりにも個人的な記憶に根ざすもので、他人にも当たるとは思えない。
また、たとえ同じバンドのメンバーでも、母親の歌を安定剤代わりにしていることなど、知られるのは恥ずかしかった。
気配もなく現れた阪東に、突然、「それは何だ?」と聞かれたときには、だから本当に驚いた。
初めての地元でのライブ。
袖から覗くと、まだ開演までだいぶ時間があるというのに、すでにちらほらと懐かしい顔が集まってきていた。
いつも以上の力で、いや、いつも通りやるのが。
考え始めると悪いくせで、すぐに袋小路に入りこむ。
楽屋に戻ったものの、そこにはスタッフやら何やら出入りが激しく、とても落ち着けそうにない。
ヒロミは楽屋を出て、ひと気のないところ…と目についた階段をおりた。
使われていないらしい倉庫の扉が開いているのを見つけてもぐりこんだ。
打ちっぱなしの床に腰をおろすと、ひんやりとした感覚が尻の方から伝わってくる。
電気をつけると誰かに見つかりそうだから、暗いまま。
しばらく座っていると、目が慣れてきたらしい。
暗闇だったのが、視界が少しずつ明るくなってきた。
隅の方に、丸イスがいくつか重ねられているのが見える。
一脚引っぱってきて、また腰をおろす。
裸電球がいくつか下がっただけの天井。
ガランとした空間を見上げると、階上から響く人の声や足音が、ふと遠ざかった。
気がつけば、ヒロミは歌っていた。
歌おうと、特に身構えることもなく。
深く息を吸い、また吐く。
小さな声で、同じ曲の一番だけをくり返した。
何度目のリピートを始めたときだろう。
「それ、何だ?」
突然、背後から聞こえた声に、ヒロミは思わず固まった。
おそるおそる振り返ると、そこには阪東がいた。
驚くほど近くに立ち、ヒロミを見下ろしていた。
気配も感じさせず、いつのまに入ってきたのか。
ヒロミがここに来るときには、確か楽屋で寝ていたはずだった。
寝起きのせいだろうか。
常態の不機嫌な男が、今日はライブだというのに、いつもにも増して機嫌が悪いようだった。
「それって…歌?」
あんまり驚いたせいで、それだけ言うのがやっとだった。
「歌は分かる」
阪東は靴底で床を叩く。
癇症な子どものような顔をして、ヒロミを睨んだ。
「何の歌だ?」
そう言われても…。
ヒロミは困惑して、阪東の肩ごし、天井から吊られた裸電球の一つに視線をやる。
タイトルなど知りはしない。
ただ、いつも日本の童謡ばかり歌っていた母が一曲だけレパートリーにしていた英語の歌で、印象深かった。
あるいは、それも日本語でないというだけで、やはり童謡なのかもしれないが。
ヒロミは何となく、その歌だけは母が、ヒロミのためにではなく、自分のために歌っていたように感じていた。
タイトルも知らないし、誰の歌かも知らない。
いわゆる耳コピーのようにして覚えた歌詞だって、おそらく、正確でないだろう。
チッ。
言いよどんでいると、焦れたらしい阪東は派手に舌打ちした。
「立て」と、ヒロミに命じる。
いつもだったらカチンとくるところを、今日は何だか変だった。
言われるままにヒロミは立ち上がる。
と、阪東はヒロミの座っていたイスを自分の方に引き寄せた。
「歌え」
腰をおろし、腕組みをする。
「へ?」
聞き返すと、先ほどと同じように睨まれた。
「さっきの」
もう一度歌え、と阪東は、イスの上でそっくり返る。
丸イスに、まるで背もたれでも付いているようだ。
怒りも呆れも通りこす横柄さで、それでいて、「さっきの」と口ぶりはあくまで幼稚。
ヒロミは思わず吹き出した。
「さっさと歌えよ」
阪東は座ったまま足踏みをする。
ヒロミは笑いをおさめながら、「何で?」と聞いてみた。
「俺が聴きたいからだ」
他に理由があるか?
革ジャンの肩を傲然とそびやかす。
無根拠な自信家の、ヒロミの母親ならきっと大嫌いなタイプの男だ。
けれど、その息子は阪東の言葉に、確かにないなと納得してしまった。
「早くしろ」
言われて、諦めて意を決する。
阪東の至近距離から一歩退いて、深呼吸を一つ。
ワンコーラス、ヒロミが歌い終えると瞑目していた阪東は目を開けた。
「もう一度」
そう言って、再び目を閉じる。
胸の前で組んでいた腕を解き、代わりのように足を組んだ。
膝頭の上に頬杖をつく。
もう一度。
もう一度。
阪東に乞われるまま、ヒロミは何度も同じ歌を歌った。
何度目だっただろうか。
ヒロミが歌っている途中、阪東は呟いた。
どうかすると、聞き逃してしまいそうな小さな声だった。
穏やかに鼓動していたヒロミの心臓が、その瞬間、どきりと跳ねた。
「落ち着く」
こぼされたひと言を、ヒロミの耳は聞き逃さなかった。
暗い倉庫の中で、阪東の顔は、心なしか入ってきたときよりも穏やかに見える。
気のせいではない。
こわばりの消えた眉の間に、もしかしてこいつも緊張していたんだろうか、とヒロミは考える。
こいつでも緊張するのか、と失礼なことも思う。
何度目かのワンコーラスが終わったところで、「もう一度」と、やはり阪東は。
こうなると、もはや合いの手に近かった。
「ちょっと待て」
一時停止、とヒロミは手を上げる。
部屋の隅から持ってきたのは、丸イスをもう一脚。
訝しげな顔をする阪東と、背中あわせに腰をおろした。
ヒロミは、そのまま阪東の背中にもたれかかった。
この際全部のつもりで体重をあずけると、阪東が、倒れないよう体に力を入れるのが分かった。
ぴたりと背中を合わせたまま、ヒロミは歌う。
「お前も歌えよ、もう覚えただろ?」
合い間に肘で突くと、けれど、阪東は首を振った。
「聴いてる方がいい」
そう言って、イスに座ったまま反転する。
ヒロミが姿勢をくずす間もなく、素早く腕を回して背中から抱きしめた。
「おい」
そろそろ楽屋に戻らないといけない時間なのに。
照れ半分でヒロミはもがく。
その抵抗とも言えないほどの抵抗を封じこめ、阪東は両手でヒロミの服を掴んだ。
「これで最後だ」
首筋に阪東の額が当たる。
静かに目を閉じる気配がした。
「あと一回だけ歌え」
どうしてか厳かな響きの声が、肌と肌の触れあった場所から、体の中に直接響く。
深く息を吸い、また吐く。
夕暮れ時に似た暗さの部屋。
縋るような男の腕の強い力を感じながら、ヒロミは再び歌い出した。
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Momboy sings a song.
ヒロミが歌っていたのが何かはご想像に。