O mio babbino caro
ヒロミは変わった。
非難がましくそう言ったのは本城だ。
就職して初めてまとまった休みが取れたから、とあの街から、本城俊明はやって来た。
だったら他に用事もあるだろうに、俺とヒロミの家に二泊三日。ヒロミはわざわざバイトを休みにして、本城につきあった。
何だかあちこち行ったらしい。聞きたくなかったから聞かなかった。
一日目の夜、俺が帰ると二人で部屋飲み。
つぶれた本城にベッドを貸して、
「お前、ポンと一緒にそっちで寝ろ。俺は床で寝るから」
それって、ありえなくねーか?
腹が立ったからその場に押さえこんだら、寝ている本城を気にして抗う。
それでも執拗に触ったら、おとなしくなった。それでも抵抗されたら、確実に本気でブチ切れてたけど。
結局、その日はベッドに本城一人、二人して床で寝た。
「ポンって酒強くねーんだよな。絡んだりとかはあんまねーけど、すぐ寝る酒って何酒って言うんだ?」
俺と並んで、いつもと少しだけ位置のずれた天井を見上げる。ヒロミは、いつになく口数が多い。
本城が来たのが嬉しくて、テンション上がってんだなって、分かるのが悔しい。
朝起きると、床で寝てる俺とヒロミを見て、本城は騒いだ。
「ありえなくね?詰めりゃ三人でも寝られるだろ、このバカでかいベッド」
ありえねーのはテメーの方だ。
二日目の夜、バイト帰りにコンビニに寄ると、晩飯を食ってきたらしいヒロミと本城に遭遇した。
カゴにぽいぽいとビールだの酎ハイだのの缶を放る本城を、
「今日は飲みすぎんじゃねーぞ」
ヒロミはたしなめながら、カゴの中の明らかに必要のなさそうな物を棚に戻していく。
「ああ!何すんだヒロミ!」
「菓子ばっかこんないらねーだろ?」
「いるだろ」
「いらねーよ。それよりもっと腹にたまる物買え」
「飯食ったばっかじゃん」
「量少なかったじゃねーか。空腹で飲むなよ、空腹で」
お前はお母さんか。
試しに俺も好きな物を好きなだけ、カゴに放りこんでヒロミの横に立つ。
「どうした?」
ヒロミは俺を振り返り、首を傾げる。俺はヒロミの鼻先にカゴを持ち上げて、中身を示した。
「な、何?」
両目を何度もまたたきさせる。分かっていない。
「いいのかよ?」
「だから何が?」
「これ買って」
カゴの中身は、ヒロミに注意された本城と同じ、アルコールと菓子類。コアラのマ一チをヒロミに突きつける。
ヒロミは、困惑顔でそれを受け取って、
「いいんじゃねーの?」
「何でだよ!?」
「何が?」
お互い質問を質問で返し合う。
「俺は、晩飯食ってねーんだぞ」
「…食えよ」
ヒロミは、コアラのマ一チを棚じゃなく、カゴに戻しながらため息をつく。本城のときと対応が違う。
本当に分かっていない顔で俺を見た。
「お前の好きに買っていいのに」
そう言い残して、レジで金が足りないと騒ぐ本城の方に足を向けた。
「あと一晩…あと一晩…」
コンビニを出て、ヒロミを真ん中に挟んで三人。一列横隊で歩きながら、呪文のように口の中でくり返す。
ヒロミは本城と喋るのに夢中で、俺の方を見もしない。
積もる話か、畜生。解けろ!
「どーした、阪東?」
あげくのはてに何故かヒロミではなく、本城が声をかけてきた。お前じゃねーよ!
互いに抗争にあけくれていた頃の感覚が残っているのか。来た当初、俺が視界に入るたびに緊張していた本城は、一晩経って慣れたらしい。
今朝にはもう気安い口をきいてくるようになっていた。
テメーのせいだ!と言いたい気持ちを何とか抑えて。ふと思い立って、俺はヒロミの肩に腕をまわした。
「おい!?」
狼狽した声が耳元で聞こえたけれど気にしない。逃れようとしたのを許さず、肩先をつかんだ手に力をこめる。
「放せ馬鹿!」
「うるせえ!」
一喝すると、反射的に口をつぐみ、ヒロミは抵抗を止めた。
「悪ぃ…」
死ぬほど恥ずかしそうに顔を伏せて、本城に謝る。
「や、俺は別にいいけどよ…」
お前ら、いいのか?
本城は言外に、ヒロミと、次いで俺を見た。
自分たちの他に通行人も少なくはない道だ。正直、視線を感じないわけでもなかったが、
「何がだ?」
俺は傲然と肩をそびやかす。
「はやく帰ろーぜ…」
いたたまれなさそうにヒロミが言った。その背中を宥めるように叩いてやりながら、本城は一瞬、それまでの軽薄さが嘘のような厳しい目で俺を見た。
そもそも何で来たのか。
俺は聞きたい。
就職して初めての長期休暇だったら、他にしたいこともあるだろう。会いたい人間もいるだろう。
俺と違って、ヒロミはちょくちょく地元へ帰り、本城とも会っているはずなのだ。
お前は何故、一体何のためにここへ来たのだ、と。
家に帰ると、まず本城が、ヒロミに勧められるまま風呂に入った。本城が出ると入れ替わりに、今度はヒロミが。
家に着いてから、俺とはひと言も口を利かない。視線もあわせない。
俺の横をすり抜けていこうとするから、足首をつかむとヒロミはつんのめった。
「ヒロミ」
「……」
無言のまま、つかまれた方とは逆の足で俺の肩を蹴る。裸足の踵が肩口に当たって、俺がひるんだ隙をついて逃げていった。
蹴られた肩を押さえて舌打ちする。
拗ねてんだろーな。しかも、さっきちょっと自分に触って、俺の機嫌がちょっと上向いたの見越して拗ねんだぜ。俺が本気で切れねーように。
猫みたいな背中を眺めて、そんなことを考えていたら、
「何してんだ、お前?」
いつのまにか本城が部屋に戻ってきていた。
「気持ち悪ぃ顔して」
本城は、ローテーブルを挟んで、俺の向かいに腰をおろす。湯上りの肩にヒロミの用意したタオルをかけ、そのシャツは…ヒロミのだよな。
いらいらしながら煙草に手を伸ばすと、
「チョーダイ」
テーブルの向こうから手が伸びてくる。
誰がやるか。
俺はその手を払った。
「早く帰れ」
煙草に火をつけて、俺は言う。本城は片眉をぴんと上げると、立ち上がって、自分の上着のポケットから煙草を取り出した。
「持ってんじゃねーか」
「持ってねーとは言ってねーだろ、誰も」
笑いながらそう言って、再び元の場所に腰を下ろす。ライターは俺のを使った。
怒らせようとして、わざとしてるっぽかったから、俺もわざと怒らない。本城は、拍子抜けしたように息をつき、眉間をしかめた。
「てか、そんなに俺のこと泊めるの嫌だったら、断りゃよかったじゃん」
それができりゃ苦労しねーよ。
俺も本城に負けず劣らず、不機嫌な顔をする。
「ポンが来るんだけど、二、三日泊めていいか?」
一週間ほど前のことだ。最初にヒロミに聞かれたとき、俺はもちろん突っぱねた。
「ふざけんな、冗談じゃねーぞ」
そう答えた。
高校を卒業して街を出たヒロミは、俺と一緒に暮らし始めた。もともと俺が一人で住んでいた部屋は、ヒロミが来て二人の部屋になった。
それ以来、この家に他人を泊めたことはないのだ。
大事なバンドのメンバーであるツネでさえ、だ。玄関から先に上がらせたこともない。
暗黙のルールだと思っていたそれを、ヒロミはあっさり破ろうとする。しかも、申し出を突っぱねた俺の心中を知ってか知らずか、
「じゃあ、ポンとどっか泊まるわ」
そうきたか。それもあっさり。
自分で言うのも何だか、俺はかなり嫉妬深い。その嫉妬深さに日々さらされているヒロミは、大抵の場合、俺の機嫌を損ねないよう、注意深く行動する。
携帯の番号や、メールアドレスを聞かれても滅多に教えないし、男女問わず、二人きりで出かけたりはしない。
が、どうも本城や杉原に限っては、全くその注意深さが向かないようだった。その二人に対し、俺が嫉妬するとは思いも寄らないらしい。
前に地元に帰ったとき、杉原とサシで飲んだと聞いて俺が怒ったら、
「何でだよ?ツネとも二人で飲みに行ったりすることあんじゃねーか」
言い返してきたから、多分、本城や杉原はヒロミの中で、ツネと同じカテゴリに分類されているんだろう。
でも、俺は違う。俺にとっての本城や杉原は、ヒロミにとっての二人とは全く違う。
察しのいいヒロミが、どうしてそれだけは理解できないのか。俺には不思議で仕方がない。
「この季節なら、直前でもホテルくらい取れんだろ」
そう言って、携帯を開くとネットに繋ぎ、地図検索を始める。無駄に手際のいいその姿に、折れるほか俺にはなかった。
何もかもテメーのせいだ。
心からの殺意をこめて、俺は本城を睨んだ。
本城は一瞬ひるんだ。が、すぐにニヤリと笑う。笑うと表情から軽薄さが消える男だ。逆なら分かりやすいのに。
マスクをかけていない本城と対峙するのは、そういえば今回が初めてだった。
ヒロミにとっては親友らしい、ヒロミと同じ学年の、つまり俺にとっては一つ下のこの男は、認めたくはないけれど、肝がすわっている。
もちろん、本城だけじゃない。ヒロミも、今ここにはいない杉原も、俺より一学年下の海老塚中学出身の三人はどいつも。
でなきゃ、百人からの集団に、たった三人でケンカを売ってくるわけがなかった。
「お前ら、つきあいなげーよな」
紫煙の行方を目で追う。本城が頷いた。
ヒロミと本城と杉原とで、いわゆる海老塚中トリオ。ケンカの腕は、自他ともに認める杉原がナンバーワン。今、俺の目の前にいる本城が斬込み隊長。
そして、リーダー格がヒロミだった。
あるいは、俺の目にそう見えていただけかもしれないけれど。
高校一年生のヒロミは背が低く、どちらかといえばあどけない顔だちが、ヒネた中身とアンバランスだった。
もっとも、背の低さや顔のガキくささは、今でもそんなに変わってねーけど。
同意を求めるつもりもなく、しかし、俺は思考の全てを口から漏らしていたらしい。
「そーだな」
本城は、もう一度頷く。
テーブルの横に手を伸ばし、帰り道に買出しをしたコンビニの袋を引き寄せる。中をあさって、缶ビールを二本取ると、そのうち一本を俺に投げて寄こした。
蓋を開けて、もちろん、乾杯なんてしない。二人同時に、手にした缶をあおる。
冷たい液体が、弾けながら喉を落ちていく。
本城は、ふいに目つきを険しくして俺を見た。
「でも、ヒロミは変わったぜ」
そう言って、髪の先から滴る水をタオルで拭う。乱暴な手つきで拭うと、またふいと横を向いた。
視線の先には鏡と、鏡の下にはドライヤーや整髪料の、まとめて放りこまれている箱がある。本城は、箱の中から、一つだけ床に落ちたブリーチ剤のチューブを見ていた。
ヒロミが時々使ってるやつ。
俺が高校を卒業する頃まで、地毛の黒だったヒロミの髪は、今、白髪と見紛うような金髪になっている。
「俺は…お前はヒロミの生意気なとこがいいんだと思ってた」
本城は、ぽつりと言った。
テレビも音楽もつけていない部屋。同じアパートの住人は、夜の商売が多いらしく、隣室からの物音もしない。
しんとした中に、小さなその声は、やたらと響いた。
「あいつは今でも生意気だろーが」
何となくいたたまれないような気分で、俺は答える。
「どこがだよ?ふざけんな」
早くもアルコールがまわってきたのか、赤い顔をした本城はケタケタと、嘲るように笑った。
「あんな顔、昔はしなかった」
そうして、またふいに真顔になって、ビールの缶で顔の下半分を隠しながら。よく見れば、こいつの顔も、高校時代とあまり印象が変わらない。
あるいは俺も。
一本目を空けると、二本目に手を伸ばした。
「あんな顔って、どんな顔だよ?」
「知らねーよ…てゆーか、俺にはうまく言えねー…でも、お前といるときの顔」
言いながら、本城はゆらゆら揺れる。
「ヒロミは変わったんだよ…で、俺はそれを見に来たんだ」
呟きながら、立てた両膝の間に、かくんと頭が落ちた。
昨日、この部屋でヒロミと二人飲みをしていたときにも早々につぶれていた。
だから、何となくそうだろうとは思っていた。どうやら酒に弱いらしい。止める義理もないから、勝手に飲むに任せていたけれど。
ローテーブルの下に足を伸ばし、俺は本城の足を蹴った。いきおい、足先が当たるのは、床に転がる空き缶。その数、二本。
「まわんのはえーよ」
俺が言うと、まるでその声が聞こえたみたいに、実際聞こえたんだろうけど、勢いよく顔を上げる。
「テメー…」
唸る。目が据わっている。犬か。お前も犬なのか。
「覚えとけよ…この野郎…」
テーブル越しに腕が伸びてくる。ヒロミのシャツだ、と思ったせいで反応が遅れた。
本城の腕は、けれど、俺の胸倉に到達する直前でパタリと落ちる。同時にテーブルに突っ伏し、
「ヒロミを違うのにしやがって、テメー…」
「そんで、これで、もしもヒロミを捨てたりしたら…マジで、マジで許さねーからな…」
最後の方はもはや呂律がまわっていない。天板からはみ出した手より、最後に飲んでいた缶が滑り落ちる。
缶は床を転がって、
「うわ!何だよこれ?」
ようやく風呂から出てきたヒロミが、あたたまった足の先を、ビールに浸して声をあげた。
その晩、ヒロミと二人で、沈没した本城をベッドに運び、俺たちはまた床で寝た。
二人の間を広く取り、背中を向けようとしたヒロミを、俺は無理やり引き寄せる。
「おい!ばんど…」
「ウルセー、本城が起きるぞ」
荒げかけた声をひと言で封じ、硬い床に背をつけて、ヒロミの肩を抱いた。いつもと少しだけ位置のずれた天井を見上げる。
「…ポンと何話してたんだ?」
「別に…つまんねーことだよ」
ヒロミが聞いてきたけど、俺ははぐらかした。答えたくない、と言外ににじませる。と、ヒロミもそれ以上聞いてはこない。
肩を抱いていた手を上にずらして、つかんだ頭を肩口に押しつける。
「苦しいってば」
ヒロミは声をひそめて抗う。手の力を少し緩めると、頭を上げた。
困惑しているような、憤慨しているような、顔。
「しょーがねえ奴だな」
そう言って腕を伸ばし、今度は俺の頭をかかえて、胸に抱く。ヒロミのクスクス笑う声が、振動として俺に伝わってきた。
ベッドの上からは、本城の寝息が聞こえる。
「ヒロミ…」
「ん?」
視線を上げると、ヒロミと目が合った。いつかどこかで確かに見た。懐かしい、顔。
これが、本城の言う「あんな顔」だろうか。
俺が頬を撫でると、機嫌のいい猫みたいに目を細める。
それともこの顔か?
「どーした、阪東?」
ヒロミに頭を撫でられて、俺は目を閉じた。
あの顔も、この顔も、
「みんないい」
俺が呟くと、
「何だそれ?」
呆れたように言って、ヒロミはまた笑った。
その晩は、夢を見た。
いつだか分からない時、どこだか分からない場所。ヒロミの手を引いて、俺は歩いてた。
このヒロミは、口が利けない。そういうことになっていた。
夢の中で、俺が、おそらく俺の一生を傾けようと思ったヒロミの声は、すでに失われていた。
「ヒロミ」
名前を呼ぶと、小さく頷く。途方に暮れて、俺はヒロミの手を引いた。
いつのまにか、足元は砂浜に変じていた。振り返ると、打ち寄せる波を背中にヒロミが笑う。俺の手を離すと、その場にしゃがんだ。
愛してるか?
ヒロミは、砂に指で書いた。
現実のヒロミなら、決して口にしない問いだ。
途方に暮れた俺は、けれど、動じない。ヒロミの前にしゃがんで、砂に書く。
現実の俺なら、決してしないことだ。
ヒロミの書いた文字の列から、「か」と「?」の二つを消して、句点を一つ。書いた先から、波に消されていく。
きっと悪夢であろう夢だった。けれど、その夢を見て目覚めた。俺は、とても穏やかな気持ちだった。
朝日の射しこむ部屋で、まだ眠っているヒロミの肩越しに、本城の背中が見えた。
ああ、つまり、そういうこと。
玄関先にしゃがんで、ヒロミはブーツの金具を留める。
「じゃあ俺、ポンのこと送ってくるから」
立ち上がって振り返った。携帯電話で、バスの時刻を確認する。
「おっじゃまーしまーしたー」
本城は、わざとらしく間延びした声で。玄関先に立った俺に、軽く頭を下げる。
この男は、昨日の晩、俺と話したことを何も覚えていないらしい。何という恐るべき、そして、都合のいい弱さだ。
見送りに出たつもりなんてなかった。玄関先にいたのは、単に台所に手を洗いに立った帰りだったからだ。
ソールの高い音を響かせ、ヒロミと本城はアパートの階段をおりていく。
俺は、扉から顔だけ出して、
「おい!」
声をかけると、二人はそろってこちらを向いた。
「本城!」
「へ?」
俺?
本城は、面食らった顔をして、ひとさし指で自分の顔を指す。どうした?と、ヒロミも本城より二つ下の段から俺を見た。
昨日の夜の、思えば、あれは本城の失言だったのだろう。
言おうかどうしようか、俺は少し迷って、
「…どう変わろうと捨てねーから、心配すんな」
結局言った。
本城は一瞬目をみはり、
「そーか」
ニヤリと笑う。やっぱ笑った方が締まる男だ。
つられて笑う俺に、ヒロミは、わけが分からないという顔をしていた。
ていうかお前、本当は覚えてんじゃねーか?
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