その日、三日ぶりに帰ってきた阪東は、帰るなりヒロミに向かって拳を振り上げた。 「何すんだテメー!!」 殴られて玄関の壁に激突し、床に崩れる。 外は強い雨が降っていた。濡れた傘と濡れた靴の二本と二足。ぎゅうぎゅうに詰められた上に膝をつき、ジーンズの分厚い生地に一瞬で水が通る。 すごく冷たい。 でも、それよりももっと冷たい目で、阪東はヒロミを見下ろして。 半開きの扉の向こうからは、水を跳ねて走る車の音が聞こえる。ヒロミが反撃の体勢をととのえる前に、阪東はその腕をつかんだ。 爪がくいこむほど強くつかんで、部屋の中へと強引に引き立てる。 放せと言うと振り返り、阪東は無言のまま片足を払った。土足のまま部屋にあがった男の、硬いブーツにしたたか脛を打たれる。 数年前なら、多分毎日のように目にしていた、キレた阪東の顔、怒りにギラつく瞳。 靴底の泥に汚れたカーペット。阪東は部屋の掃除なんか絶対にしないから、これを始末するのは、まず間違いなくヒロミの役目だ。 うんざりする。 殴られたのとぶつかったのと蹴られたので、全身が痛い。 阪東は、何日も無断で家をあけた挙句、甘ったるい香水の匂いを体中にまとわりつかせて帰ってきた。 そんな男が一体何に腹を立てているのか。 腕を放された瞬間、殴りかかったヒロミに、阪東は呪文のように口にした。 「 」 思わず動きを止めた。ヒロミの体を阪東はすばやく抱きしめる。 なるほど、それで。 阪東の怒りの理由を、ヒロミは理解した。 阪東が口にしたのは、ある男の名前。 今、阪東の体からは、阪東のものでも、もちろんヒロミのものでもない香水が匂っている。 今日はバイトが休みで、しかも天気は雨で、ヒロミは朝からずっと一人で家に籠もっていた。目が覚めた直後にシャワーを浴びたきりだから、体からは今、何の匂いもしないだろう。 でも、たとえば少し前なら、ヒロミも阪東と同じだった。数日前、家に帰ったときのヒロミの体からは、ヒロミのものでも阪東のものでもない香りがしたはず。 そういうこと。 バレてもいいや、と思って帰ったのに、案に反して部屋に阪東はいなかった。 それからずっと姿を見せず、現在に至る。今の今、やっと帰ってきた。 どうかすると抱きつぶされてしまいそうな強い力で、阪東はヒロミを抱きしめる。 ごまかそうか、言いくるめようか。少し迷ったけれど、それは止めにした。 「誰に聞いた?」 ヒロミが言うと、 「 」 阪東は、今度は女の名前を口にする。 「誰だよ、それ?」 半ば予想はついたものの聞くと、案の定、ここ数日、阪東の泊まっていた部屋の主だった。 何でそいつが? 阪東が言った。ヒロミが寝た男の、その女は彼女。 正直驚いた。 彼氏の様子がおかしいんで問いつめたら、白状したらしい。 「『ひろみ』って奴とやったんだって」 女は阪東に泣きついて、阪東はその女に手を出した。まさか、彼氏の浮気相手が男だとは、彼女は考えもしなかった。 けれど、阪東はぴんときた。 すごい勘だし、すごい奇遇だ。 そう思いながら、女と会った場所を聞く。阪東は某クラブの名前をあげた。 何だ。 高揚した気分が一気に萎えた。ヒロミが、男の方と最初に会ったのと同じクラブだった。勘はともかく、奇遇の方は奇遇でも何でもない。 全ては同じコップの中のできごと。 半径一メートルの小宇宙。 「お前さあ、それ俺に怒れた義理なくね?」 だからヒロミは阪東に言った。ちょっと笑い出したいような気分で。 阪東は首を横に振る。 至極もっともなことを言ったつもり。目には目を、歯には歯を、お前がやったから俺もやる。 お互いさまだろ? けれど、この、恐ろしく身勝手な俺様に理屈は通じない。 あてつけかよ、と睨まれる。 「違うけど」 ヒロミが下を向くと、 「俺はいいけどお前はダメなんだよ」 何故か勝ち誇ったように。 どうしようもない男にはまっていると、そうつくづく思う。 家のドアは半開きのまま、もちろん、鍵もかけていない。泥だらけの床に押し倒されるとき、偶然視界に入った玄関。 「ドア開いてる」 ヒロミは言った。 「だからどーした」 阪東は答える。 雨音はひどく遠くに聞こえた。 |
ヒロミが阪東を食んでいる部分。腕を伸ばして指先で、ヒロミは円周でも測るように指を這わせた。 容赦のないピストンが一瞬止まり、阪東の大きな目が何度もまばたきする。 「ここさ……」 荒い息を整えながら、ヒロミは、阪東の耳元で囁いた。なるべく甘い声で。さっきの今、口にするには危険なセリフ。 「もう一本くらいいけそーだよな」 そう言って、殊更楽しげに笑ってみた。 何を言われたのか分からない。阪東はそんな顔をした。ぽかんとして、きょとんとしている。 一方的に責められるのにももう飽きていたから、横臥の姿勢から体を起こし、半開きの唇にキスをした。唇を押し当て、そっと離す。 ヒロミの言葉の意味を、阪東はまだ理解できない。 あたまのわるい。 ヒロミは阪東の頭を撫でた。飼い犬にいたずらでもするように、固められた髪に指を通して逆毛にする。雨の日の、湿度の高い部屋の中に整髪料が強く匂った。 あの甘ったるい残り香の、やっと消えた阪東の体。途端、いとしい気持ちが胸にこみあげて、たまらなくなる。 俺だって妬いてないわけじゃない。 ピアスだらけの耳朶を噛むと、阪東がヒロミの顔を見た。 察しの悪い男のために、今度はゆっくり。挑発してやるつもりで言った。 俺だって、腹が立っていないわけじゃない。 さっきの倍、百倍やさしい声で囁く。 「だから、ここ、もう一本くらい入りそーだろ?だからさ、もう一人くらい男が欲しーなって」 そういう意味。 もう一度耳朶を噛み、阪東の目を見て笑う。腰に当てられた手を、繋がった場所に導く。 そうして、ぼんやりしていた阪東の顔にも、徐々に理解が広がって。阪東の顔は初め青くなり、次いで赤くなる。 次の瞬間、強い衝撃とともに、ヒロミの視界も赤く染まった。 目を開けると、鼻先に目覚まし時計が転がっていた。 文字盤にファンシーなウサギが跳ねている。前に、阪東が女の部屋から持ってきてしまった物だ。 ヒロミと一緒に暮らし始めてから、ヒロミの気づいている限りでは初めての。 「どーしてこんなもん持ってきたんだよ?この部屋に全然似合わねーじゃん」 浮気を、ではなくそれを責めたヒロミに、お前っておもしれー、と阪東は爆笑した。 ライトグリーンのプラスチックに、赤い血が飛んでいる。 阪東のペニスはすでにヒロミの体の中から抜け、足の間にはべたついた感触があった。 緑と赤は補色……っていうんだったかな。 左のこめかみの辺りが、じんじんと熱をもって痛む、こんなときなのに考える。 てゆーか、いきなり鈍器かよ……。 危ねー奴だな、と思い、元々阪東は危ない奴だった、と久しく忘れていたことを思い出す。 目を閉じて考えていたら、頬にぽたぽたと雨が降ってきて。上を見たら阪東が泣いていた。 「泣くなよ……」 ヒロミは腕を伸ばして、さっきと同じように阪東の頭を撫でた。 「うるせー」 阪東はその手を払う。 一緒に暮らすようになって知ったことだが、意外なことにこの男は時々泣く。本人曰く、高校時代は涙腺がぶっ壊れていたから、泣かなかった。まるで、その分まで取り戻そうとしているみたいに、最近はよく泣く。 精神の昂りが一定のレベルを超えると、どうしようもなくなるらしい。 どんな気持ちも、抑えることができない。そのせいで損ばかりしている阪東を、けれど、ヒロミはかわいそうだと思ったことはない。 ただ、泣かれるのは困る。 どうしたらいいか分からなくなってしまう。 破られて襤褸と化したシャツを引き寄せ、ヒロミは阪東の頬を拭ってやった。 ナイフみたいな鋭い視線が上から突き刺さる。 大きな手の華奢な手指がゆっくりと首に巻きつき、 「次やったらころす……次ほかのやつとやったら……」 阪東はヒロミを床に押しつける。背中が冷たい。 やめろと言っても阪東は聞かず、ころす、ころす、と幼稚な口ぶりで、うわごとのようにくり返した。 その手に、決定的な力がこめられる気配はない。 ヒロミが上から手を重ねると、瞬間、びくりと震えた。 「やりたきゃやれ」 お前に殺されるなら別にいい。そう言うと、阪東は目をみはった。 昔は普通に俺を殺そうとしてたくせに。 ヒロミの好きな阪東ヒデトは世界で一番勝手な男で。 自分はしょっちゅう誰かと出かけるし、口説くし、寝るし、それなのに、ヒロミにはそれら一切を許さない。どころか、本当は、自分以外とは口もきかせたくないらしい。 触らせたくない。 見せたくない。 ちょっと常軌を逸した嫉妬深さ。 「お前それでよく俺のことバンドに誘ったな」 前にそう言ったことがある。阪東は、それとこれとは話が別だと、 「歌ってるときのお前は全部俺のもんだ」 スタジオで二人きりのとき、 「めちゃくちゃ見られるじゃねーか」 そう言ったヒロミに、ギターを弾きながら、何でもないこと、当たり前のように答えた。その自信が、どうしてステージを下りても続かないのか。 阪東の手が、ヒロミの首を離れ、再び下腹の辺りをさまよい始める。 阪東は頭が悪い。きっとヒロミの浮気の理由を、単純に自分へのあてつけだと思っている。それは半分正解で、半分不正解だった。 確かにそれもある。けれど、それだけじゃない。 それだけで俺はお前以外の、しかも男と寝たりしない。 「さみしい」 ヒロミが呟くと、阪東はちょっと笑った。ヒロミの肩に腕をまわし、これからは泊まらずに帰ってくる、と言った。 やっぱりこの男は馬鹿だ。 それを聞いて、ヒロミは思った。 俺の気持ちなんて何にも分かっちゃいない。 「……あいつと何回やった?」 聞かれたから、一回だけ、と答えた。顔色ひとつ変えることなく嘘をつく。ヒロミにはそれができる。そして、阪東はヒロミの嘘を見抜けない。 もしかしたら、見抜く必要もないと、思っているのかもしれないけれど。 「俺、ホントはお前がいれば、他に何にもいらねーよ」 ヒロミは言った。今度は嘘じゃない。 「俺も」 阪東も言う。 ヒロミと違って、阪東は嘘をつくのがあまり上手くない。上手くないどころじゃない。とても下手だ。 どんなにヒロミがそばにいても、阪東は他のものを欲しがることをやめられない。 そういう男だ。もう諦めている。 そして、本当は、ヒロミは阪東のそれが羨ましい。 阪東の帰らない日、この部屋に一人きりでいると、いつも思う。 お前の他に、俺には欲しいものが何もない。 ヒロミが阪東に寂しいと言うとき、その寂しさの源は、多分、そこにある。いつのまにか、ヒロミには阪東の他に何もなくなってしまった。 でも、阪東はそうじゃない。 それが寂しい。 阪東さえいれば、ヒロミは満たされてしまう。満たされたロッカーなんて飛べない鳥で。 ヒロミは、芋虫から蛾になりたい。それも、世界一の毒蛾に。だから、どうしても考えてしまう。 阪東が、いつか本当に戻ってこなくなるのが恐い。阪東に捨てられたらおしまいだって思う。 それが嫌でそれが不安で、寂しくてたまらない。 多分今日は帰ってこない日、阪東とも一緒に行ったことのあるクラブに、ヒロミは一人で行った。 振動みたいな音を吐き出すスピーカーの横で、煙草を吸う。誰と話すでもなく、何をするでもなく。ボーッとしていたら、知らない男に声をかけられた。 そういうイベントの日でもないのに。不思議に思ったけれど、何となく雰囲気で分かるって。 そーか、分かっちゃうのか。 言われておかしくなって笑って、誘われて男の家に行った。その日は飲んだだけで何もなくて、メアドだけ交換して。 数日後に連絡があった。行ったらライブハウスだった。 音楽をやっていると言った覚えはない。服装と大音量が平気なので、気づいたらしい。 ライブの間ずっと体を触られて、我慢できなくなったから途中で抜け出した。ライブハウスのトイレで、ゴムがなかったから途中まで。それから前と同じ家に行った。 その後何度か会った。彼女にバレたみたいでヤバいから、って切られたんだよな。 で、その彼女が阪東の言った女。 こうして思い返してみれば、旦那にかまってもらえなくて寂しい、よくある主婦の不倫みたいだった。陳腐で、情けなくて、涙が出る。 男は、阪東とは似ていなかった。 きっと、阪東に少しも似たところのない男だから、ヒロミは寝た。 泣くのはお前の専売特許じゃない。ヒロミは阪東を睨んだ。でも、涙は出なかった。 「分かんねー?」 ヒロミが聞くと、 「分かんねー」 阪東が答える。 何もかも仕方がない。 いつのまにか雨は止んでいた。 |