10月
直帰OKの金曜日。
外回りに使ったレンタカーを返して、普段は使わない駅のコンコースを抜ける。
10月。
駅前広場の噴水も、涼しいというより、もはや目に寒い。
肩にかけていた上着に腕を通し、桃城は、タクシーだまりに寄り添うように歩いた。
どこかに遊びに行こうか。
1週間分たっぷりの疲労と、週末に向けてのささやかな解放感。
そんなことを考えながら、携帯電話の着信をチェックする。
着信は1件。
時間はちょうど10分前。
たとえ会社からでも、今日はもう戻らない。
決意めいたものを胸に、しかし、本日の日付、着信の時間とともに表示されていたのは、上司でも同僚でもなく。
「英二先輩?」
学生時代、それも中学高校の部活の先輩だった。
自分の記憶が確かなら、この前彼に会ったのは半年前で、それも会社の飲み会でのニアミス。
大学時代には、キャンパスが近かったこともあってよく遊んだし、時にはコンパの数合わせに呼ばれることもあったが、就職してからは、互いに忙しい。
気がつけば年に1度、部活のOB会などで顔を合わせるくらいの関係になっていた。
もっとも、あの頃仲が良かった部活の仲間で、現在疎遠になっている人間は、ひとり菊丸だけではない。
そう思った途端、意識がたった1人へと収斂していきそうになる。
苦いような、甘いような、とにかく熱いものが、喉の奥からこみ上げてきて、やばいな、と思った瞬間だった。
マナーモードの携帯電話が画面を光らせ、ぶるぶる震えて着信を知らせた。
「あっ、桃?」
我に返って電話に出た耳に届いたのは、桃城の感傷を年単位のラグごと吹き飛ばす、先輩の元気な声だった。
「電話つながんなかったよ。ちゃんと出ろよ」
聞きようによっては理不尽な前置きとともに、菊丸はまくしたてる。
ディティールについての余計な説明が大量に付されている上に、話があっちへ飛びこっちへ飛びするので分かりにくい。
どうやら菊丸は、今、彼と同じく桃城の部活の先輩だった不二周助と都内某所でお食事中。
すでに多少は酒も入っている状態で、お前も来いと桃城を誘っているらしい。
「ホント偶然。不二と会ったのどこだと思う?
成田だよ成田!
え?俺は単なるお見送り。
でも不二はさ。そういや何で不二ってあんなに空港とか駅とか似合うんだろうね。
旅人的?
そんな感じでさ。
何か懐かしいね。天才的?とか。
そんでご飯食べようって話になってさ、ダメもとで乾に連絡したら乾も来るっていうし。
大石は夜勤。あいつ夜勤多すぎ。
うん、でもこないだ一緒にご飯食べた。
あとは手塚……って、手塚今日本にいないよ!以上、自分つっこみでした!」
電話の脇から漏れてしまいそうなほど賑やかな声に、冗談めかして耳をふさぐ。
予感がした。
「俺ね、ちょっと出たの。いわゆる報奨金?
そうそう、誉めなさい誉めなさい。
だから、久しぶりに後輩におごってあげようと思ってさ。
えっ?何って……。
寿司だよ」
「寿司……ですか」
「来てびっくりにしようと思ったのに」
オウム返しの桃城に、電話の向こうから、少しだけ悔しそうな菊丸の声が聞こえる。
「ていうかお前、一度も来てないっていうからさ」
菊丸が並べたテニス部の先輩たちの中に名前がなかったことで、予感はあった。
自分から、彼は?としいて挙げることはしなかった。
たぶん、菊丸は、自分が昔、思い余って彼に告白したことを知らない。
だから、少なくとも菊丸に関して言えば、純粋な好意だ。
「バレちゃったよー。ああ、もうしょうがないから出てよ」
菊丸の声が少し遠くなる。
数秒の空白。
「桃」
そこで突然、電話の相手が替わった。
菊丸と同席しているはずの不二ではなかった。
予感はあったけれど、前触れはなかった。
当然のように心の準備もしていない。
桃城が何も言わずにいると、もう一度、桃?と。
この声を、つい昨日も聞いた。
そんな錯覚に危うく陥りそうになる。
「……えっと、あの俺、河村だけど」
元気だった?と変わらない、桃城の耳には今でもとても甘く響く声で、ためらいがちに言葉を継ぐ。
「突然ごめんな。もし、時間があったらでいいから」
無意識のうちに、駅の前まで引き返し、噴水の端に腰かけていた。
水しぶきがスーツの背中にかかるのも気にならない。
良かったらおいで、と言われて、はい、と答えてしまったのはどうしてだったのか。
通話の切れた携帯電話を見つめて考える。
思い切るように立ち上がり、桃城はコンコースを逆走した。
途中でストップしているのが申し訳ない「括る日まで」の未来。
青学の皆さんのその後については、それはもう微に入り細に入り妄想してしまいます。
戻る