括る日まで 3
「『すっぱい葡萄』って話知っとるか?」
数日後、桃城はなぜか氷帝の忍足と、氷帝学園の近くにある商店街のお好み焼き屋に来ていた。
忍足は、東京のお好み焼きはやっぱあかんねー、などと相変わらず怪しげな関西弁で、桃城の分まで器用にお好み焼きをひっくり返す。
「『すっぱい葡萄』って」
「自分、イソップ童話って読んだことない?」
「あー、あるような…」
「内容は覚えてません、か」
「はあ」
「じゃあ、分からんわな」
何がおかしいのかクスクスと笑いながら、焼きあがったお好み焼きを桃城の皿に取る。食べ、と言われて、桃城は素直に箸をつけた。
美味い。
思わず、マヨネーズに伸ばしかけた手が止まる。マヨネーズなしでもイケる味だ、これは。
「美味いっす」
桃城が言うと、忍足は、おおきに、と、これは完全にふざけた関西弁で返した。
「イソップ童話にな、『すっぱい葡萄』って話があるんよ。キツネがな、高い木の上になってる葡萄を取ろうとして、でも、キツネって、そんな大きな動物やないし、実際はどうか知らんけど、木登りとかもあかんやろ?取れへんねん」
葡萄、と忍足は、自分の皿に取ったお好み焼きを、食べやすい大きさに箸で切り分ける。
「で、キツネは葡萄を諦める。でも、諦めるのに、ただ諦めるって癪やん?キツネはこう思うんよ」
皿の上に箸を置いて、眼鏡越しの、意外と鋭い視線が桃城に向けられる。
「あの葡萄は、すっぱいに決まってる、ってな」
向けられた視線を避けるように俯いて、桃城は水の入ったコップに手を伸ばした。
「心理学の用語で防衛機制。合理化、や。お前さんは、その好きな相手とやらを……、つまり、『すっぱい葡萄』扱いにしたんやね」
テーブルを挟んだ向こうから、忍足の手が伸びてきて、鼻の頭を指ではじかれる。
「考えすぎはダメよ」
ウインクは……恐かった。
そもそも、どうして桃城は、他校の先輩とこんな所でお好み焼きを食べているのか。
話は数時間前に遡る。
珍しく部活が休みの日曜日、桃城は珍しくストリートテニスにも行かず、家でゴロゴロしていた。掃除機をかける母親から邪魔にされながら、あっちへゴロゴロ、こっちへゴロゴロ、居間の畳の上で転がっていたときのことだ。
「お兄ちゃん、電話」
2階にいた妹が、電話の子機を片手に階段を下りてきた。
「誰?」
「河村さんて人から」
「!」
お兄ちゃんが縮地法を使った、とは一瞬にして手に持った子機を兄に奪われた妹の言。興奮を隠さず電話をする兄を見て、呆れたようなため息をついた彼女は、その兄のせいで微妙にテニスに詳しくなっている。
「桃?休みの日にごめんね。今いいかな?」
ほとんど子機に噛みつくような勢いで、もしもし!と叫んだ桃城の耳に、おっとりとした河村の声が届く。
「た、タカさん今日はお店は……」
「今、昼の休憩。親父が寝てるから、小声でごめんね」
時計を見れば、すでに14時半。ランチタイムがちょうど終わった時間である。
「桃さ、こないだ廊下で会ったとき、俺に何か言おうとしてただろ?それで、何かなって思って……。昨日、不二から今日は部活ないって聞いたんだ。それで……。ホントごめんね、日曜なのに。い、いや、俺も気になったっていうか、あのとき、桃、元気なかったし…」
消え入りそうな語尾がかわいかった。たとえ親しい間柄であっても、必要以上に遠慮をするのがこの人である。休日に、後輩の家へ電話をかけるのに、どんなに迷ったことか。
かけるべきか、かけるべきでないか。
何度か行ったことのある、「かわむらすし」の黒電話の前で、腕組みをして考え込む様子が目に浮かんだ。
「タカさん」
「うん?」
「休憩って、何時まですか?」
思い描いた、自分のことで頭を悩ませる河村の姿。その姿に背中を押されるように、桃城は言った。
「え?4時までだけど…」
「じゃあ、今から行っていいすか?」
少しは脈があるのだろうか。桃城の気持ちを知ったら、嬉しい、と。受け入れてくれるまでは行かなくても、少しは思ってくれるのだろうか。
「会って、話がしたいんです」
自転車を飛ばして、「かわむらすし」へと急いだ。河村に、好きだ、と言うために。
途中、すれ違う女の子が皆、河村の彼女に見えた。負けねえ、と思った。俺は男だから、お前らより全然不利だ。でも、負けねえ、と。
貫けそうにない覚悟を放って、その裏の諦めも言い訳も放って、桃城は自転車を駆る。
ただ、好きだ、と言うために。
「で、好きな人に好きだと言うために自転車を走らせた奴が、何で今こんなとこにおるんよ?」
お好み焼きにマヨネーズで妙な図形を書きながら、忍足は片手に持った取り分け用のヘラで桃城を指した。
「さっき言ったじゃないすか…」
恨めしそうな視線に苦笑を返す。
「ああ、先客がおったんやったね」
そう。
息せき切って「かわむらすし」に駆けつけて、そこで桃城は知った。
今までの自分が、どんなに幸福だったかを。
河村と並ぶと、どんな女の子でも、河村の彼女に見える。でも、女の子たちは桃城にとって、あくまで仮想敵に過ぎなかった。彼女はいない、と本人が言ったのだから。
彼女はいない。
その言葉に嘘はなかった。確かに、河村に「彼女」は、いない。
「かわむらすし」の入り口には、「準備中」の札が下げられていた。鍵は開いているのかもしれないが、何となく勝手に入るのは気が引ける。裏口へ回ろうか、お父さんが寝ているというから、声をかけて呼ぶのはダメだな、携帯を鳴らそうか。逡巡する桃城の耳に、
「ダメッ……」
低く、押し殺すような声が聞こえたのは、そのときだった。
「ダメだったら。もうじき後輩が来るんだよ……」
聞き覚えのある声だった。
「いいじゃねえか。最近ずっとやってねえんだから」
細く開けた、ガラス戸の向こうに聞き耳をたてる。濡れた何かが触れ合うような音が、かすかに聞こえた。
薄暗い店内に目を凝らす。蠢く2つの影が見えた。桃城は驚きに目を見開いて、危うく声をあげかけた。片手で口を塞ぎ、もう一方の手で、扉を更に数センチ、開いた中を覗いた。
河村が誰かとキスをしていた。
誰か、なんて一目見れば分かる。
長身の河村の、そのまた上を行く長身。後姿でも伝わってくる危険な雰囲気。極めつけが、逆立てられた白い髪だ。見かけたことは数えるほどだが、こんなに目立つ男を、そうそう忘れられるものではない。
「かわむらすし」の奥の、家族の居住スペースへと続く階段脇の柱に河村の体を押しつけ、上から覆いかぶさるように抱きしめる。
それは、元山吹中の亜久津だった。
金槌で、頭の横を思い切り殴られたような気分だった。
河村の、いもしない彼女に嫉妬して、その彼女に、負けるもんかと告白を考えた。さっきまでの自分を、ひどく遠くに感じる。
2人のキスは、どう見ても友だち同士が交わしていいようなキスではなかった。周りの空気を、全部性の色に染め上げるような。亜久津はくり返し河村の唇を奪う。
初めこそ、後輩が来るから、桃に見られたら、と抵抗していた河村も、やがて、亜久津の背中に腕を回した。指の長い河村の手が、亜久津のシャツをぎゅっと掴む。
「今日、店終わったらうちに来いよ」
口づけの合間に、亜久津が囁く。
河村が頷く気配がした。
限界だった。
桃城は、自転車をその場に置いたまま、後ろも見ずに駆け出していた。
「そんで、行き先も確かめんとバスに乗って、気がついたら、うちのガッコの前まで来とったんか」
「俺、バカみたいっすよね」
勝手に好きになって、勝手に女の子に嫉妬して、勝手に盛り上がって。
あげく、河村は、桃城とも河村とも同じ、男の亜久津に取られていた、なんて。バカすぎて、涙が出そうだ。
氷帝学園前のバス停で、放心していた桃城を、部活帰りらしい忍足が見つけた。多分、自分はそのとき、この世の終わりみたいな顔をしていたんだと思う。忍足は、自分、腹減っとらんか?と、桃城をお好み焼き屋に誘ってくれた。傷ついているのに、すごくすごく落ち込んでいるのに、桃城の腹は主を裏切って、魅力的な誘いにグーッと音をたてて答えた。
2人でお好み焼き屋に入って、焼けるまでコレでも食べとき、と忍足は、もんじゃ焼きのオプションで売られている、ベビースターラーメンを取って桃城に渡してくれた。
人の情けが身にしみた、というのだろうか。
桃城は、いつもなら袋を逆さまにして3秒で完食、のベビースターを手の平に出して、一本ずつコリコリコリコリと食べながら、忍足に事の経緯を、もちろん、相手が男だということや、河村や亜久津の実名は伏せてだけれど、語った。同じ学校の人間ではないから、かえって話しやすかった。
長い長い桃城の話を、特に倦むような様子もなく、忍足は聞いてくれた。一昨年の全国大会で対戦したときも思ったけれど、この人は常に飄々としていて、ほとんど表情が変わる、ということがない。
「何か、俺、ガッカリしちゃって。あの人って、あんな奴とデキちゃうような人だったんだ、って。もうホント、幻想を返せーって感じですよ」
ただ、桃城がそう言ったときだけ、見たこともないような恐い顔で、桃城の顔をじっと見た。
そして、話は冒頭へと戻る。
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忍足は、オカンというより、おばちゃんな感じで。20.5巻の、趣味は映画鑑賞(ラブロマンス系)から、他人の恋愛話を聞くのも好きだろう、ということで、ご登場願いました。
最初は、オタク設定で、忍足にギャルゲやエロゲの攻略不能キャラについて延々と語らせようかとも思ったのですが、さすがにそれはあんまりだな、と思い、イソップ童話に。「すっぱい葡萄」のネタは、次まで引っぱります。次もおそらく忍足と桃ちゃんがお好み焼き屋でグダグダ、だと思います。