長生きするから 1





   河村隆の朝は早い。
 まだ薄暗いうちから、父親と市場へ仕入れに出かける。高校3年の冬に自動車の免許をとって以来、行き帰りのワゴン車の運転は、河村の担当だ。
 帰ったら、車を店の裏にとめ、荷下ろし。それが済んだら掃除。
 店の前の通りを箒で掃きながら、
「おはようございます」
と、顔見知りの新聞配達との朝の挨拶も欠かさない。
 初冬の朝の空気は、きんと冷たい。胸いっぱいに吸いこんで、河村は空を仰ぐ。
 ようやく明けてきた空の、東は朝焼け。
「朝焼けは、『やがて雨』だ」
 相変わらずジジ臭えな、てめえは。
 呟いた河村の耳に、蘇る声。ハッとして辺りを見回したが、周囲に、河村以外の人かげは見えなかった。
 空耳か。
 河村は、やがて気を取り直したように、掃除を再開した。








 河村の幼なじみである亜久津仁が失踪したのは、今年の3月、高校の卒業式が終わった直後のことだった。
 河村の通っていた青学と亜久津の山吹とは、卒業式の日取りが同じで、河村は自分の卒業式が終わった後、同級生や後輩たちとの別れを惜しむのもそこそこに、足早に亜久津家へと向かった。
 高校を卒業した後、河村は、4月から都内の某調理師専門学校に入ることが決まっていた。実家のすし屋で修行をする以外に、学校で学べることもあるだろう、と考えたからだ。
 亜久津には、前年の秋に入試を受ける前から、その旨を伝えていた。亜久津は、河村の話を聞いて、
「そうかよ」
と気のない返事を返しただけだったが、いつものことなので、河村は気にしなかった。
 それよりも、河村が気にしていたのは、亜久津の進路だ。
 山吹の高等校を卒業した後、亜久津がどうするつもりなのか、河村にはさっぱり分からなかった。大学などに進学するのか、それとも就職するのか、本人に聞いてみても、はぐらかされるか、あるいは、
「何で、お前にそんなこと言わなきゃなんねえの?」
と凄まれるばかりで、結局、分からないままに卒業の日を迎えてしまった。
 今日こそ、亜久津の進路を教えてもらえるかもしれない。
 河村の胸は高鳴った。



 しかし、学校と自宅との距離を考えて、もう帰っているだろうと思っていた河村の予想に反し、亜久津家のインターフォンを押した河村を迎えたのは、亜久津ではなく、母親の優紀だった。
「ごめんね、隆君。仁、まだ帰ってないのよ」
 優紀は、珍しくスーツを着ていた。彼女は、先ほどまで息子の卒業式に出席していて、これから仕事に出かけるのだという。
「そっか、友だちと…」
 別れでも惜しんでいるのかもね。
 言いかけた河村は、ハッとして口をつぐむ。目の前で優紀が、少し困った顔をしていた。
 亜久津に別れを惜しむような友だちはいない。
 亜久津の母親である彼女が、そのことをずっと気に病んでいるのは知っていた。
 彼女の息子は生まれつき、神か誰か、人智を超えた存在に愛された少年だった。与えられたものの余りの多さに、まだほんの子どもの頃からずっと、亜久津は他者というものを、ほとんど必要としなかった。
 他人から見れば、まぶしいばかりの亜久津のそんな部分が、優紀の目には哀しく映っていたらしい。
 だから、彼女は、河村が亜久津の友人として家に出入りするようになったのを、とても喜んでくれた。
 優紀のその気持ちが、河村には痛いほどよく分かった。
 かつてそうだったように、無邪気な憧れをもって亜久津を仰ぎ見ることが、今の河村にはもうできない。
 亜久津の心に、寄り添うように立ってみて初めて分かる。彼は、近づけば近づくほど哀しい男だった。
 中学最後の年に再会した亜久津は、自らの力を持て余し、常にイライラとしていた。
 たった15で、もう、この世界の全てに倦んでしまったような、冷めた視線を河村に向ける彼は、同時に、この世界の全てから孤立していた。自信に満ちた様子が却って痛々しく、放っておくことはできなかった。
 もしも亜久津に、別れを惜しむような仲の良い友だちができたのなら、今の河村は、
「隆君、仁と付き合ってくれてありがとうね」
と言った優紀と同じように、心から喜ぶだろう。
 以前、亜久津にそんなようなことを言ったことがある。
 そのとき、亜久津はなぜか、ひどく不機嫌な様子で、
「お前はそれでいいのかよ?」
と言った。
 もしも亜久津に友だちができたら、心から嬉しいと思う。その気持ちに嘘はなかった。それなのに、河村は、
「いいよ」
と即答することができなかった。



 本当のことを言うと、河村は、優紀にすまないと思っている。
 優紀は、息子と河村との付き合いが復活したことに喜んでいたが、その付き合いは、おそらく優紀の考えているような、ただの友だち付き合いではなかった。
 誰にも内緒だけれど、亜久津と河村は、お互いの家や、場合によってはそれ以外の場所で、何度も体を重ねていた。
 自他ともに認める一本気な性格の河村に、男同士で肉体関係をもつことへの抵抗がなかったといえば嘘になる。時には、優紀や自分の両親の顔を思い浮かべ、申し訳なく思ったりもした。
 それでも、自分に向かって伸ばされた亜久津の手を一度も拒んだことがなかったのは、ひとえに亜久津が好きだったからだ。
 河村は、確かに、亜久津に恋をしていた。
 しかし、亜久津はどうなのだろう?
 河村が亜久津に抱かれる理由のような理由を、亜久津は河村を抱くために必要とするだろうか。
「俺に指図するな」
という口癖が端的に表しているように、彼は、自分以外の何ものの基準にも縛られることのない男である。性的なモラルについても、例外ではないだろう。
 そんな亜久津が相手だから、河村は、自分が亜久津に恋をしているからといって、亜久津との関係までをも恋と言い切ってしまうことには、躊躇いを感じていた。
 恋だけではない。どんな定義も、2人の間にあるものを表すには不十分で、不正確に感じた。
 もっと形がなく、あやふやなもの。どうかすると、すぐに消えてしまいそうな、曖昧なもの。亜久津と河村の間にあるのは、そういうものだった。
 そして、あやふやで曖昧な関係なだけに、河村は不安だった。いつか突然、亜久津から、あっさりと終わりを告げられそうで恐かった。
 事が終わった後には、煙草を吸う亜久津の背中を眺めながら、これが最後かもしれない、と河村は思う。いつも思う。
 亜久津の進路を知りたいと思ったのも、本当は、進学や就職のことを聞きたかったのではない。亜久津が4月からも自分のそばにいてくれるのか、この関係を続けていくつもりがあるのか、それが聞きたかったのだ。



「隆君、あたしそろそろ出かけるから」
 優紀の声で河村は我に返った。どうやら、1人で思考の沼に落ち込んでいたようだ。
「あ、じゃあ、俺も出るよ。亜久津もまだ帰ってきそうにないし、家帰って着替えたいから」
 玄関に向かう優紀を慌てて追いかける。
 河村は、後にこのときの自分の行動、すなわち、いったん亜久津家を出て自宅に帰ったことを、何度も思い返しては後悔するはめになるが、まだ、そのことを知らない。
「そういえば、言い忘れてた。隆君、卒業おめでとう」
と優紀に言われ、
「ありがとう」
と返しながら、自分も後で亜久津に会ったら、まずは卒業おめでとうだな、と考えていた。






 亜久津がいなくなった。
 何度となく河村を抱いた自宅のベッドの上に、筒に入ったままの卒業証書を置いて、僅かな身の回りの物だけ持って。優紀にも、そして河村にも何も告げることなく、亜久津は姿を消した。
「あの子のことだから、そのうちふらっと帰ってくるんじゃないかな?」
 優紀はそう言ったが、結局、それから、一度も亜久津からの音信はない。
 亜久津がどこで何をしているのか、分からないままに数か月が過ぎた。季節は夏に変わろうとしていた。







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 アクタカさんのプロポーズ、その1。続きます。ハイ口ウズの「千年メ夕゛ル」という歌を聴きながら考えた話です。あの歌は良い。歌い出しからアクタカである。




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