The Secret Garden





 習慣というものはおそろしい。
 めずらしく丸1日仕事が休みの河村が、目を覚まし、寝室の窓に目をやると、冬の空は未だ夜明け前の暗さだった。
 猫の毛のようにあたたかく、やわらかな敷き毛布に頬を擦りつける。
 枕元の目覚まし時計を確認すると、短針は5と6の中間を指していた。
 休日だというのに、普段どおりの時間に起きてしまったらしい。
 新聞屋か牛乳屋か、バイクの音がアパートの外の道の方から聞こえた。
 起きようか。
 欠伸をしつつ思う。
 仕事は休みだけれど、家事はたまっている。
 早起きは、してし過ぎるということはない。
 そう思って、起こしかけた河村の体は、しかし、ふいに背後から伸びてきた腕によって、布団の中に引き戻された。

「寒い」

 くぐもった声とともに、腰にまわった2本の腕にぎゅっと締められる。
 真冬でも、就寝時には上半身裸になってしまう。
 それは寒いはずだろう、と思いながら、河村は、剥き出しの腕を宥めるように撫でた。
 不自然な体勢から振り向くと、肩口に亜久津の顔が埋まっている。

「いつ帰ってきたんだ?」

 お互いの仕事の関係で、亜久津と河村とでは生活時間帯が違う。
 同じ家に暮らしていても、2人ともが起きた状態では顔を合わせない日もしばしばあった。

「……知るか」

 ややあって、不機嫌な呟きが返ってくる。
 この様子では、寝入って間もないのだろう。
 起こしてしまって悪いことをした。
 河村は、寝転んだまま体を反転させると、亜久津の背中に腕をまわした。
 目覚めたときよりは多少明るくなった空に目をやり、どこかで鳴き出した土鳩の声に耳を澄ませる。
 てめえもねろ、と舌足らずに言う亜久津の唇に軽く唇を合わせて、河村は目を閉じた。



 次に目が覚めると、時計はすでに正午をまわっていた。
 浅い眠りの中で、河村は中学時代の夢を見ていた。
 部活に没頭した中学時代、夢に登場するのは、やはりと言うべきか元テニス部の面々で。
 河村は中学でテニスを止めてしまったから、エスカレーター式の学校でも、中等部を卒業して以来、全く顔を合わせていないような後輩もいる。
 彼らも出てきた。
 そういえば、亜久津はいなかったな。
 鼻先が触れあうほどの距離で眠る同居人の顔を見ながら、河村は思った。
 テニスの夢だったら、亜久津も出てきたっておかしくないのに。
 河村が起き上がり、ベッドから出ても、今度は亜久津の腕は追いかけてこなかった。
 着替えをして、脱いだ服を洗濯カゴに放りこみ、居間のカーテンを開ける。
 冬の空はよく晴れていた。
 しばらくすると、亜久津も起きてきて、洗濯機をまわす河村に一瞥をくれ、風呂へと向かった。
 大きく伸びをする。
 冬眠明けの動物のようなその姿に、思わず苦笑がもれた。


「おい」

 やがて、シャワーを浴びて出てきた亜久津は、ふてくされたような顔をして河村に言い募った。
 曰く、洗濯はもう少し先にしろ。
 自分が風呂を出た後だ。
 シャワーの出が悪くてかなわない。
 河村の背中にまとわりつきながら、寒かった寒かったと亜久津はくり返す。
 そんなに寒いならさっさと何か着てこればいいのに、と河村は思った。
 口にすれば怒るだろうから言わない。
 亜久津の腕が河村の腰にまわり、薬缶をかけたコンロの火を止め、茶筒に手を伸ばそうとすると、コーヒーにしろ、と言われた。
 横柄な物言いに、心地よさを感じてしまうのはおかしいだろうか。

「じゃあ、亜久津はコーヒーな」

 俺はお茶でいいよ、と振り向いたときの、何とも寂しそうな、明らかにショックを受けたような顔がかわいいと思うのは。
 時々、河村の心を試すように突き放す亜久津は、逆に河村から突き放されることにはとても弱い。
 たとえ日常の中の、ほんの些細なことでも我慢ならないらしい。
 何て自分勝手な男だろう、と。
 けれど、河村はそのことに嬉しくなってしまう。

「やっぱり、俺もコーヒーにしようかな」

 河村がそう言うと、亜久津はとても嬉しそうに、うすい唇の端をつりあげるようにして笑った。



 コーヒーにご飯と味噌汁は、もしかすると割と気持ちの悪い組み合わせかもしれない。
 そんなことを考えながら、朝食兼昼食の支度をしていると、河村の頬をつめたい風が撫でた。
 台所から顔を出せば、ベランダに面した居間の窓が全開である。
 物干し竿には空のハンガーを残したまま、さて、亜久津はどこへ行ったのか。
 不思議に思って、視線を窓の方から居間の中へ移せば、テレビの前、座卓の脇に座りこんで亜久津は何か見ている。
 めずらしく、背中を丸めて。
 後ろから近づいてそっと手元を覗くと、食い入るような亜久津の視線の先、床の上には、1冊の雑誌が広げられていた。

「亜久津」

 河村が呼ぶとびくりと体をふるわせ、これも亜久津にしてはめずらしく、おそるおそる、といった態で振り返る。
 まるで、悪戯を見つかった子どものような。
 ベランダに置かれたカゴの中には、濡れた洗濯物のほとんどが残っていた。
 河村は、亜久津が途中で放棄したそれらを干し、その間、亜久津は彫像のように固まって河村を見ていた。
 手には雑誌を持ったまま。

「寒いな」

 カゴいっぱいの洗濯物を干し終え、河村は窓を閉める。
 通りの音が聞こえなくなった部屋の中で、亜久津が雑誌を取り落とす、ぱさりという音だけが河村の耳には届いた。
 亜久津の見ていた雑誌。それは、河村が昨日仕事帰りに買った物だ。
 寝る前に読んでいたのを、片づけ忘れて居間のテーブルに放置してしまった。
 河村が眠った後に帰宅した亜久津は、ベッドに直行したようで、つい先ほどまでその存在には気づいていなかったらしい。
 リョーマが表紙のテニス雑誌だった。
 もちろん、テニス雑誌の表紙に越前リョーマの写真が載ることなど、めずらしくも何ともない。
 ただ、今回は表紙の写真が現在ではなく、中学時代の彼であることがいつもと違った。
 日本の誇る天才テニスプレイヤーを、その幼少期から丹念にトレースした巻頭特集の中では、当然のように、リョーマの中学時代にも言及がされていた。
 見開きのページを使って、どこから探してきたのか、中1の地区大会以来の写真がずらりと並んでいる。
 最上段の中央、トレードマークだった白い帽子を深くかぶり、スプリットステップを踏むリョーマに対峙する。
 黄緑色のユニフォームの背中は、亜久津だ。
 自分の3年間も、今考えればずいぶん短いが、亜久津がテニスをしていた期間は、それよりも更に短く半年足らず。
 正直なところ、心残りがあるのではないかと、河村はずっと気にかけていた。
 あるいは、亜久津には心残りがあってほしいと願っていたのか。
 雑誌を落としたことにも、まるで気づかない様子で、亜久津は河村の方に手を伸ばしてくる。
 冷えた河村の手を取り、一瞬だけ、あの日コートでリョーマに向けたような、するどい視線で河村を見た。

「亜久津」

 そうして、俯いた亜久津は河村が呼ぶと、思い出したように顔を上げた。
 握られた方とは逆の手で、亜久津の髪を撫でてやる。
 河村は、今朝見た夢のことを思い出していた。








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