おまけもの4
1.君に会えて
真夜中、ふと目覚めた自分の部屋で、見慣れた天井がいやに低く、上から抑えつけてくるように感じた。耐えられず起きあがると、当然のように家の中はしんとしている。
煙草の火を得ようと部屋を出る。
水道の蛇口から滴り落ちる水が流しを打つ、そんな小さな音が耳朶を打った。煙を深く胸に吸いこみ、台所の天井を見上げる。ここの天井も、やはり低かった。
優紀の部屋の扉は閉じている。視界の端でそれを確認して、亜久津は家を出た。携帯電話の液晶が示す時刻は午前2時。あと2、3時間もすれば東の空が白み始めるだろう、夏の夜だ。
ひんやりとした風が、夜道を抜けていく。自分の他に通行人の1人もいないのに、肩で風を切って歩いた。
行くべき場所は1つしかなかった。
やはり、というべきだろうか。
見上げた部屋の窓は真っ暗だった。
優紀の話では、河村は店の仕入れに同行するため、毎朝夜明けとともに起き出しているらしい。だから、今頃は確実に夢の中だ。
別段あてがはずれたと思うこともなく、亜久津は、黙って河村の部屋の窓を見上げた。元より、会えることは期待していない。
ただ、見上げた河村の部屋の窓と、未だ地中化されていない電線との間の暗い空が高かった。目を凝らすと、そこに、もはや輪郭さえもおぼろな顔が幻のように浮かんだ。
2年前の河村の笑顔だ。
もう一度、あの笑みを向けられ、「亜久津」と優しい声で呼ばれたい。
一瞬、こみ上げるように胸に生じた思いを、慌てて煙草に火をつけ、煙を深く吸いこむことで消し去る。
それから、亜久津はしばらくその場に佇んで。帰り道、夏の夜は未だ明けず。けれども確かに高くなった空と、軽くなった心とを感じた。
2.アイラブ坊主
「かわむらすし」の扉には「本日定休」の札がかかっていた。
薄暗いガラス戸の向こうに人の気配はなく、何となくを装って訪れた自分がバカに思える。
つまんねえ、と踵を返しかけた足は、しかし、一歩踏み出したところで止まった。いつもの出前用とは違う、スポーツバイクに跨った河村が、こちらに近づいてくるのが見えた。
店の前に亜久津の姿を見とめ、河村の顔色が変わる。普段なら、何が嬉しいのか亜久津には分からないが、嬉しそうに近づいてくるのに、自転車をとめてその場から動かない。
「河村」
亜久津が呼ぶと、視線を避けるように下を向いた。
しかし、そんな河村の態度に、亜久津はショックを受けることはなかった。一目で理由が分かったからだ。
「床屋か?」
数メートル離れたところでびくりと肩を震わせる。
観念したように河村が近づいてくるのを、ようこそ、と腕を広げて亜久津は待ち受けた。
河村は店の横に自転車をとめ、亜久津の側に来ると、また恥ずかしそうに下を向いた。
「笑うなよ……」
口の中でモゴモゴと言いながら、耳まで赤く染まっていく。
昨日の夜、店の手伝いを終えた河村を、亜久津は家に呼んだ。そのときよりも、だいぶ短くなった河村の髪。
もはや角刈り、スポーツ刈りの域を超えてほとんど坊主、しかも、かなり本格的な坊主だ。
触らせろ、と伸ばされた手を、避けようとして避けきれない。亜久津は河村の頭を小脇に抱え、思う存分撫で回した。
亜久津を見上げる河村の目は、もはや涙目である。
真面目な雰囲気から意外に思われるらしいが、実のところ、亜久津の幼なじみは相当に外見を気にするタイプだ。
それを知っているだけに、亜久津はおかしくて仕方がなかった。そんなに外見が気になるならもう少し若者向けの美容室にでも行けばいいのに、河村にとって散髪の選択肢には昔から行っている近所の床屋しかないのだ。
予想以上の分量で刈られていく髪に、持ち前の気の弱さを発揮して、一言も口を挟めないでいる。そんな姿が容易に目に浮かんだ。
散々撫で回して、とりあえずは気が済んで、亜久津は河村を解放した。
童顔のせいか、ファッションで坊主にしているようには全く見えない河村の、すっかり丸くなった頭のフォルムは、出会った頃の小さな彼を連想させる。
「似合うじゃねえか」
本心から言ったのだが、おもしろがるような視線と口調に、当然のことながら河村は信じなかった。もういいよ、と亜久津を置いて家の中に入っていこうとする。完全に拗ねてしまった河村の、珍しく子どものような態度がおかしかった。
口を尖らせたその顔をもっと見ていたくて、亜久津は閉じかけた扉の隙間に足を挟んだ。
3.CALLING
全国大会の準決勝を明日に控えた夜、亜久津のもとに河村から電話があった。
「明日、準決勝なんだ」
受話器越しに、今にも消え入りそうな河村の声が聞こえた。
相手は大阪の四天宝寺で、青学のオーダーはまだ決まっていない。四天宝寺には、不動峰の石田鉄の兄、波動球の元祖とも言うべき石田銀がいる。
「俺、シングルスで石田とあたりたいな……」
河村の言葉に、態度にこそ表さなかったものの、亜久津は驚いた。
亜久津の知る河村隆という男は、良く言えば無欲である。同じ空手道場に通っていたときにも、より強い相手と戦うことに拘る亜久津に対し、河村は、俺は弱いし、と前置きしたうえで、誰とあたっても全力でやるだけだ、という姿勢を崩さずにいた。
テニスを始めても、河村のそういう部分に変わりはなかった。亜久津は、これまで河村の口から、シングルスが良いとか、誰と試合がしたいといった言葉を聞いたことがない。
その河村が、石田銀と試合をしたいと言っている。
「珍しいな」
「何が?」
「お前が誰かとあたりたいとか」
「……最後のテニスだから」
これが最後だから、悔いを残したくない。3年間テニスに打ちこんだことにも、青学テニス部の一員であることにも。
捨てていくもの、この先がないものであるからこそ、自分の全てをぶつけたい。その気持ちは、亜久津自身、分からないでもなかった。
元祖にして最強。河村は、石田銀の波動球について語る。
彼とあたりたい。今の青学の中で、石田とまともに試合ができるのは自分だけだ。
気の弱い幼なじみの胸のうちに、いつのまにか芽生えていた自信に、亜久津は、目を瞠るような思いがした。
しかし、受話器の向こうから聞こえる河村の声は、相変わらず、今にも消え入りそうな小さな声で。石田に勝ちたい、と言われて、勝たせてやりたい、と亜久津は思った。
4.最強!
「一緒にご飯を食べたりしなよ」
川べりの冷たい風が、顔に吹きつける。頭を上げると、千石が河村を見ていた。
「一緒に寝てさ。毎朝、『おはよう』ってお互いに言い合うの」
沈みゆく太陽を背に、千石は笑う。明るいのか暗いのか分からない夕暮れの空に、白い学ランが、輪郭だけが浮かび上がっているように見えた。
嬉しいのか悲しいのか分からない。千石は、そんな顔をしている。
自分も同じだ、と河村は思った。
嬉しいのか悲しいのか分からない。
分かるのはただ、自分も千石も、こうして2人で向かい合っていながら、本当はお互いのことなど目に入っていない。2人して、ここにいない亜久津のことばかり考えている、ということだった。
「一緒にテレビ見て、喋って。つまんないことで喧嘩して、仲直りしたりうやむやにしたりして。そういうことを続ければさ、君たちはきっと大丈夫になるよ」
千石は、学ランの下に派手なプリントのシャツを着ていた。河村にも見覚えのある、昔のアニメのキャラクターが、サボテンの下にしかけた爆弾で爆発している。
あの爆弾は、あのオオカミみたいなやつが、確か自分でしかけたんじゃなかったかな。
そんなことを考えてぼんやりしていると、いつのまにか、少し離れた場所にいたはずの千石が目の前に来ていた。
「君たちには未来がない」
いつか、亜久津が青学のテニス部員たちを前にそうしたように両手を広げて、明日がない、とたたみかけるように口にする。
「本当は何にもないんだ」
夕日と同じ、オレンジ色の髪が、河村の鼻先で揺れている。
そのとおりだ、と河村も思った。
自分たちの間には、自分と亜久津の間には、本当は何もない。他人に語って聞かせるようなことも、目に見えるような絆も、何も。
それでも。
「でも、俺、亜久津のことが好きなんだ」
亜久津との間にある全てがあやふやでも、それだけは譲れない。川べりの冷たい風を、河村は向かい風として受ける。
きっぱりと言った河村に、逆光の千石は、知ってるよ、と小さく頷いた。
「だから俺、君たちは大丈夫だと思うんだ」
5.見えない勲章
河村にとって最後の試合。それは、もはやテニスの範疇を超えた力と力のぶつかり合いだった。
傷だらけの河村に、心配性の副部長が青ざめる。止めても無駄だ、と言いながら、桃城には、正直分からなかった。
ほとんど自分の命を賭けてまで、河村は何を得ようとしているのか。何が欲しくて、あんなにも必死に戦っているのか。
全国大会が始まる直前、2人でフラットショットの特訓をしたことがある。あのとき、河村は、ラケットを握っているのに平素の人格を失わなかった。日本一のパワープレイヤーになる、と桃城の前で静かに宣言した。
血まみれの河村が立ち上がる。
もうやめろ、と声にならない声が、青学ベンチを包む。
夕暮れのテニスコートで対峙した、河村の澄んだ瞳には、薄い紗が1枚かかっているようだった。
日本一のパワープレイヤーになりたいという、彼の言葉にきっと嘘はない。それでも、倒されても倒されても立ち上がる、鬼気迫る河村の姿に、桃城は、悟らずにはいられなかった。
あのとき、あの言葉の裏に、河村は何か別のものを隠していた。もしかすると、隠していることに自分でも気づかずに、隠していた。
言葉にして告げられた思いの裏に、もうひとつ。
河村の切実な思い。それは、もはや願いだった。
そして、迎えた最後の試合。
あの特訓のときと同じ、河村は、ラケットを手にしても落ち着いていた。
コートの外で、桃城は文字通りの死闘を見つめる。
河村が戦うのは、ただ、その願いのため。しかし、その願いが一体何なのか。考えても考えても、桃城には分からなかった。
思いがけず答えが分かったのは、河村の試合が終了した直後。満身創痍の河村に、お前がいてよかった、と部長が口にしたときだ。
河村は、その言葉に目をみはり、噛みしめるように頷くと涙をこぼした。
気の弱い人だが、人前では泣かない。河村の涙を見たのは、初めてだった。
やがて、河村は涙をぬぐい、顔を上げた。
血と泥にまみれたその表情は、とても……晴れ晴れとしていた。
あなたは、これが欲しかったのか。
ボロボロになったユニフォームの背中が、医務室の方へと消えていくのを見送る。桃城は、次の試合が始まることも忘れ、しばし、その場に立ち尽くしていた。
6.こんなこと
「亜久津、テニスしよっか?」
「……しねえよ」
「しないよね」
「するか」
「そうだよね」
「……してもいいぜ」
「しないよ」
そうして、河村はいつも晴ればれと笑う。
ほんの少しの寂しさを滲ませた、けれど、屈託のない笑顔。
その内にあるものを、亜久津は知らない。
分かり合えないままに2人で時を重ねて、死んでもいい、と思っている。
7.真夏のプリンス
夏休み、「たまには顔を見せに来い」と言われ、店を休めない父を除く家族3人で、母親の実家に1泊してきた。
母親の実家は、隣県の沿岸部にあり、着いてすぐに祖父母と同居の伯父に、海へ連れていってもらった。
漁協でジュースを飲ませてもらっていると、伯父が、仲間に声をかけられ、一緒に船の手入れを始めた。ただ見物しているのも悪いので、邪魔かな、と思いつつも手伝いを申し出る。
「あれを向こうの倉庫に運んでくれ」と巻かれたワイヤーロープを示され、早速運ぶ。大人の腕でひと抱えほどもある上に、日差しで熱くなっているので、一度にいくつもは運べない。
2つ目に手をかけたところで、「手ぇ切るぞ、これ使え」と隣の船の整備をしていたおじいさんから、軍手を投げられた。
すると、「珍しい、ジイさんが口利いた」と更に隣の船の、こちらは、おじいさんおじさんと言うよりはお兄さんが。
船の整備が終わり、伯父よりも一足先に漁協に戻って汗を拭き、再びジュースを飲ませてもらう。体を動かした後だからか、さっきと同じジュースなのに、さっきよりもおいしく感じる。
漁協の人と話をしていると、先ほどのおじいさんが入ってきた。
「軍手、洗って返します」と言うと、おじいさんは、実に豪快に笑った。机の上に、伯父に借りたタオルと並べて置かれていた軍手を取り上げ、「こんなもん、洗って返す奴なんて聞いたことねえ」と、ズボンのポケットに突っこんだ。
「珍しい、ジイさんが笑った」と漁協の人が、ついさっき、船の上で聞いたのと同じような驚きの声をあげる。
おじいさんは取り合わず、休憩所のソファにどかりと腰を下ろして煙草を吸う。カレーの大きな空き缶が灰皿代わりだ。日に焼けた手に握りこまれた箱の、ちらりと見えた銘柄に心臓が跳ねた。
仕事の後の一服を済ませ、早々に漁協を出て行くおじいさんと、入れ違いのように伯父たちが戻ってくる。
赤銅色に焼けた海の男たちに混じっても違和感のない甥に、子供のいない伯父は、仲間たちに対し誇らしげだ。「中学では、テニスで全国大会にも行ったんだぞ」と自慢され、感心されて、嬉しい気持ちよりも恥ずかしさが勝った。
祖父母や母たちが待っているから帰ろう、と伯父を急かし、父親が仕入れに使っているのと同じ、軽トラに乗りこむ。
貶され慣れてはいるが、誉められ慣れてはいない。そんな我が身を情けなく感じつつ、港の方を振り返れば、先ほどのおじいさんが、道の端に立って、こちらに向かって片手を上げるのが目に入った。
慌てて助手席の窓を開け、危険は承知で乗り出しながら、大きく手を振り返す。
帰り際、今度は軽トラではなく乗用車で、駅まで送ってくれた伯父が、「寿司屋が嫌になったらいつでも来い」と改札の前で握手を求める。冗談とも本気ともつかない台詞に、「兄さん」と母親が伯父をにらみ、「そしたらうちは私が継ごうかな」と妹が、これも冗談とも本気ともつかない台詞で皆の無言を誘った。
都内に戻って電車を降り、デパートで買い物をしたいという母と妹とは駅で別れた。3人分の荷物プラス土産とはいえ、1泊だから、どうというほどの量でもない。
停留所でバスを待っている間に、メールを1本した。
夏休みとはいえ、平日昼間のバスは空いている。後部扉の向かいの席に座り、荷物は床と膝の上とに分置する。乗り物の中で眠れる方ではないが、目を閉じた。
程なく着いた自宅近くの停留所でバスを降りると、「よう」と片手を上げる銀髪。
メールには、もちろん、迎えに来てほしいなんて書かなかった。それなのに、炎天下で待っていてくれた。嬉しいと申し訳ないが2つながらに胸の中で膨れあがる。
日の落ちた後よりも、日の高いうちはかえって外を歩いている人は少ない。気温30度超をいいことに、シャツの袖を肩までまくり上げた、むき出しの腕に飛びついた。
「暑苦しい!」と、すぐに引きはがされたのも楽しくて、クスクス漏れる笑いが止まらない。
「コンビニに行くついでに来た」という亜久津に、セブンイレブンでアイスを奢って。同じソーダ味をかじりながら歩く亜久津は、こちらが何にも言っていないのに荷物を半分持ってくれる。
食べ終えたアイスの棒を、まるで煙草のように咥えて歩く。
この2日間のことを、亜久津に何から話そうかと考えた。「お前に似たおじいさんがいたよ」なんて言ったら、さすがに怒るだろうか。