本当にあった怖い話




 去年の夏休みのことなんだけどね。



 河村は、おもむろに口を開いた。



 亜久津のうちに泊まりに行ったんだよ。
 優紀ちゃんが留守で何にも食べてないって言うから、店が終わった後に晩ご飯持っていって。でも、次の日も朝早い予定だったから、すぐに寝ちゃったんだ。

 夜中の……何時頃だったのかなあ。

 俺、目が覚めちゃったんだよ。恥ずかしい話だけど、ベッドから落ちてさ。
 亜久津も俺も、あんまり寝相悪い方じゃないんだけど、やっぱりシングルに男2人は狭いよね。ちょっと寝返りうつと落ちちゃうんだ。
 ……って、何か言い訳みたいだな。

 えっと、とにかくそれで目が覚めて。窓の外見たら、まだ真っ暗だった。
 ベッドの上見たら、亜久津も熟睡してるし、俺も寝直そうと思ったんだ。
 けど、何でか眠れなかったんだよ。

 そのうち喉が渇いてきてね。台所に水を飲みに行こうと思ったんだ。
 亜久津のうちって、こう……玄関入ってすぐのところに台所があってさ。亜久津の部屋からだと、居間を抜けていくんだよ。その日、家の中はすごくシーンとしてた。

 ところが。

 ……突然、台所の方から水の音が聞こえたんだ。居間と台所の間の戸は引き戸なのね。戸は閉まってて、その向こうから。

 うん、台所から水の音が聞こえるのは、別に不自然じゃない。
 でも、変なんだよ。
 ……だって、そのとき亜久津の家には亜久津と俺しかいなくて、亜久津は自分の部屋で寝てるわけじゃない。水もれにしては音が大きいし、優紀ちゃんが帰ってきたにしては居間も玄関も真っ暗だし。
 ……引き戸に手をかけたとき、何だかすごく嫌な予感がしたんだ。
 何ていうのかな……背筋がゾクッっていうか、ゾワッっていうか。すごく嫌な……気持ちの悪い……。

 でもね、後から考えると妙なんだけど、俺、そのとき、台所に行くのをやめようとは全然思わなかったんだ。いや、喉が渇いてたことは、そのときはすっかり忘れてた。
 そっとね、戸を開けたんだよ。音がしないように。
 台所は、電気がついてなくて真っ暗だった。水の音は、案の定っていうか、流しの方から聞こえた。
 でも、誰もいない。
 おかしいな、って思って、俺は真っ暗闇の中に目をこらした。

 そしたらね。

 亜久津の家の流しの横に、いつも置いてある踏み台があるんだよ。まさか、亜久津は使わないよ。優紀ちゃんが上の戸棚開けるときに使ってる。その踏み台がさ、流しの前に移動してたんだ。
 それを見て、
「あれ?」
って、俺、思わず声出しちゃったんだ。

 そしたら、踏み台の上にね。これくらい……そう、30センチくらいかな。
 ……真っ黒い、影みたいな人が立ってたんだよ。

 水飲んでたのかな。そうかもしれない。そいつが、俺の声に気づいて振り向いたみたいな気配がした。
 それで、俺もうパニックになって、慌てて亜久津の部屋に戻って、ベッドの中にもぐりこんでさ。もちろん寝られないよ。でも、怖かったから目を閉じて、じっとしてたんだ。
 台所の戸も、亜久津の部屋の戸も、開けっ放しだった。

 ……しばらくするとね、カサッ、カサッって音が聞こえたんだ。落ち葉が風に吹かれるみたいな、小さな。
 部屋の外から聞こえた。
 その音がね、段々……近づいてきたんだよ。カサッ……カサッ……って、ゆっくり、ゆっくり。

 最初、亜久津の部屋の外から聞こえてきたのが、部屋の中、ベッドの近くまで来た。
 何かが、枕もとに立って俺を見てた。目をつぶってても分かったよ。
 あんまり敏感な方じゃないけど、そのときは確かに感じたよ。
 冷や汗がいっぱい出て、心臓がドキドキして。でも、俺、ここで目を開けちゃだめだ、声を出しちゃだめだ、って自分に言い聞かせながらじっとしてた。

 そうしたら、
「おい」
って。
 突然、声がした。
 ううん、亜久津の声だった。亜久津が、
「おい、起きてんのか」
って。
 思わず亜久津の方を振り向いて、もう一度振り返ったときには、もう何もいなかったよ。

 それで、次の朝ね。いや、その後は何か安心しちゃって、寝ちゃったんだよ。
 朝起きたときには、もう、夜のことは半分くらい夢かなと思ってた。怖い夢見たな、って。
 俺、朝ご飯の用意しようと思って、台所に行ったんだよ。みそ汁作るのに、鍋に水入れててさ。ふっと、蛇口を見たんだ。
 そしたらさ。
 水道の蛇口って、水出るところからすぐ上がこうやって曲がってるじゃない。その、蛇口の先から、ちょうど曲がってるところくらいまでがさ、……焼け焦げたみたいに真っ黒になってるんだよ。
 布巾で拭いてみたんだけど、取れなかった。洗剤も付けてみたんだけど。
 ううん、水は普通に出たよ。
 その蛇口は、帰ってきた優紀ちゃんが気づいて、すぐに取りかえられたんだけどさ。俺、いまだに亜久津の家に行くと、何となく気になっちゃうんだよね。蛇口の先のところが黒くなってないかな、って。
 結局、それから一度もないんだけどね。



 修学旅行の夜。初めは大勢で好きな女子の話などしていたのが、1人また1人と脱落していき、気がつけば残っているのは、かつて中等部のテニス部でレギュラーだった者ばかりだった。
 誰が最初に始めたのかは分からない。いつのまにか、話は怪談になっていた。
「タカさんはさ、何かないの?」
 ふいに、菊丸が聞いた。不二が、ネットで仕入れたという、とびきり恐ろしい話を披露した直後だ。
 旅先で興奮しているのか、早寝早起きの河村が、その夜は珍しく起きていた。
「え、俺?」
 それまで全くの聞き役だった河村は、突然話を振られたことに少し戸惑い、少し考えこんで、
「あんまり怖くないんだけど、いいかな?」
と話し始めた。



「そのときはすごく怖かったんだけど、後から考えると、怖いっていうより、むしろ不思議な体験だったなあ、って」
 河村は、話し終えるとそう言った。
「何だったんだろうね、その黒い影って」
「気になるよなあ」
 不二が枕の上に優雅に肘をついて指を組み、菊丸が布団の上に寝転んだまま腕組みをする。
 同級生たちの寝息と、まだ起きている数人の身じろぎと、時計の針のコチコチいう音と。ふと会話が途切れ、それらの音だけが響く部屋の中、
「俺は」
 それまで、黙って河村の話を聞いていた乾が、おもむろに口を開いた。
「俺はむしろ、河村が亜久津とシングルベッドに2人で寝ていることの方が気になるな」



 更なる沈黙に部屋は沈んだ。
















 手塚と大石は早寝組。


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