小満
亜久津が一番荒れていた頃、亜久津がいつ帰っても優紀は家にいた。
他人から見れば若すぎるだろう優紀は、亜久津にしてみれば、ただ当たり前の母である。
亜久津が帰ってくると、優紀はいつも居間のテレビの前に座り、ただいまも言わず入ってきた息子のことを、じっと見ていた。
あの頃、優紀はあまり笑わず、喋らず、かと思うと、突然、子どものようにはしゃいだ。
その姿は、無邪気でほほえましいというより、単純に幼稚と亜久津の目に映り。
無性に苛々していた。
この世の何もかもに対し、倦み、腹を立てていた。
優紀は、時々、思い出したように泣いた。
溜まったものをぶちまけるように。
亜久津の前で泣くときも、そうでないときもあった。
どんな言葉でなじられた記憶より、あれが一番堪える。
亜久津の試合はすごかった。
隆くんは目をきらきらさせて言った。
「亜久津の試合はすごかったんだよ。うちの1年とやったんだけどね」
そう、仁は隆くんの学校の1年生と試合をした。
そして、負けた。
息子が負けたと知って、優紀はとても驚いた。
親バカでなく、あの子を負かすことのできる人間がいただなんて。
本当に単純に驚いた。
それが、仁より年下の中学1年生。
でも、隆くんは、勝敗のことなんてまるで気にしていないみたいだった。
しきりに、優紀が仁の試合に間に合わなかったことを残念がっていた。
「俺ね、あんなすごい試合初めて見たよ」
あたしは、こんなに興奮してる隆くんを初めて見た。
「すごかったんだ、ホント。優紀ちゃんがあれを見られなかったなんて」
すごかったすごかった、と隆くんは、まるでそれ以外の言葉を忘れてしまったみたいに。
子どもみたいに真っ赤な顔で話す。
仁の出場した都大会が終わって、関東大会っていうのと全国大会が終わって、夏が終わって、隆くんはテニスをやめた。
だけど、この子は、いい意味で少しも変わらない。
優紀が息子の試合に間に合わなかったのは、会場に着くまでと会場の中でと2回、迷ったからだ。
隆くんは、仁の試合が終わった直後、会場で優紀を見かけたけれど、部活の皆と一緒だったから、声をかけられなかったらしい。
「電話してくれればよかったのに」
そう言って、残念がった。
隆くんとは、仁が青学の1年生と試合をした日の少し前、数年ぶりに話をした。
家は近所だし、道で会えば挨拶もしたけれど、きちんと話すのは数年ぶり。
それに、優紀は、仁が中学に入った頃から、ごく最近までのことを実はあまり覚えていない。
家の近くのファミレスで、仁も一緒に3人で会った。
仁が、隆くんの学校のテニス部員を襲った。
隆くんの口からそれを聞いて、どうしようもない話だけれど、またか、と優紀は思った。
それくらいのこと、珍しくもなかった。
でも、自分の部活のことも仁のことも、優紀のことも、本気で心配している隆くんの顔を見たら、何だか情けなくて泣けてきた。
意外だったのは、仁が、呼び出しに応じて素直に来たことだ。
何が気に入らなかったのか、隆くんにアイスコーヒーをかけ、その後、たまたま同じ店に来ていた隆くんの同級生や後輩たちと揉めた。
帰り際、隆くんに、ルーズリーフの紙を1枚渡された。
隆くんの携帯電話の番号がメモされたそれは、今も、亜久津家の優紀の部屋に貼られている。
「亜久津に何かあったら教えて」
思いつめたような顔で隆くんが言うのに、優紀は思わずうなずいてしまった。
ああいう顔は、本当ならあたしがしなきゃだったんだよね。
「電話してくれれば、迎えに行ったのに」
隆くんは言う。
亜久津のお母さんにあの試合を見せたかった、と。
大丈夫、隆くんの顔を見ればじゅうぶん分かるよ。
それに。
相変わらずただいまを言わず、仁は帰ってきた。
隆くんが、自分のたぶんたった一度の本気の試合について、一生懸命に語るのを聞いて赤面する。
真っ赤な顔をして、仁のことを話す隆くんに、隆くんの後ろで真っ赤な顔をしている仁。
おもしろい図だな、と思って、そうしたら、優紀は何だか笑えてきた。
隆くんが、あたしを探すために仁の試合から少しでも目を離してたら、きっと、あたしが仁から恨まれちゃう。
隆くんに気づかれないようにウィンクすると、仁は、すごく嫌そうな顔で横を向いた。
ホントに素直じゃないんだから!
お客さんからもらったサクランボ。
「はしり」でまだ珍しいから。
母さんから持たされたサクランボを土産に、河村は亜久津の家に行った。
あいにく亜久津は留守だったけれど、優紀ちゃんがいて、河村がビニールのパックに入ったサクランボを渡すと、すごく喜んでくれた。
かわいい、って。
果物のことそんなふうに言う。
たとえば、おいしそうとかじゃなくて、かわいいって。
優紀ちゃんらしいなって、ほほえましいような気持ちになった。
自分と同い年の、亜久津のお母さんに対して変なんだけど。
サクランボの旬はもう少し後の、今は5月。
あれから、もう1年経つんだな、と河村は空を見上げた。
この家のベランダには、今日はほとんど洗濯物がない。
見覚えのあるポロシャツと、ハーフパンツが1枚ずつだけ干されている。
「……優紀ちゃん、あれって山吹のユニフォーム?」
背中の方しか見えなかったから、すぐには気づかなかった。
黄緑色のポロシャツと、白いハーフパンツは、山吹中学のユニフォームだ。
亜久津がテニス部にいた頃、身につけていたものに違いなかった。
優紀ちゃんは、洗ったサクランボを水切りのザルごと皿にあげて、居間にもってきた。
それをテーブルの上に置くと、そうよ、と顔を上げる。
「仁の後輩の子が持ってきてくれたの。新入部員が来て、さすがに卒業した元部員のユニフォームは置けなくなったみたい」
持ってきてくれた子は、ずいぶん謝ってたけれど、今まできちんと部室に置いておいてくれて。
優紀ちゃんは、窓の外に視線をやり、眩しそうに目を細めた。
ベランダには、黄緑色のポロシャツと白いハーフパンツの、亜久津のユニフォームがひらひら揺れている。
視点は上から順に、亜久津→優紀ちゃん→タカさんで。
亜久津がファミレスで隆の頭からかけたのが何だったのか、未だに分りません。とりあえず今回はアイスコーヒーにしましたが、本当に何なんだろう?
サクランボは、亜久津の分は別にちゃんと残してありますよ。
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