幸せな結末
「仕事をやめようと思うんだけど」
もうもうと煙の上がるコンロの向こうで、黙々とカルビを焼きながら、河村が言った。
久しぶりの外食は焼肉だった。
自宅に一番近いのが焼肉屋だったからだが、「肉かよ」と寄る年波に勝てないことを予感しつつ、七輪を挟んで座る。しかし、予想とは裏腹に、ロースやカルビといった精肉を中心に、昔とさほど変わらない食欲で皿を片していくことができた。
俺も意外と若いな、と内心自讃していたところ。
突然のことに反応するのが少し遅れた。しばらく間を置いて、「そうか」と一言返すだけで精一杯だった。
煙と油に汚れた窓ガラスを、かすめるようにトラックが走り去る。
「今すぐにか?」
気を落ち着かせるために、ジョッキの生ビールを呷った。
亜久津が聞くと、河村は「今すぐってわけじゃない」と横を向いた。メニューの書かれた半紙だらけの壁に視線をやる。
「来年かな」
そう言って小首を傾げた。欲目もあるに違いないが、すでに還暦をこえた親父とは思えない。かわいらしい仕種だった。
「かわむらすし」の先代、すなわち河村の父親も、河村の来年と同い年で引退した。それを意識しての、河村なりの区切りなのだろう。
父親とほぼ入れ替わりで板場に入った、遠縁の子どもの名前をあげる。子どもといっても、今や壮年で、何年か前からは事実上の共同経営者になっていた男だ。
「彼に継いでもらうつもり」
亜久津が皿を差し出すと、適当に焼けた肉を取ってくれる。
まるで、正月にテレビで観た駅伝の、たすきを次走に繋いだ走者のようだ。河村はすっきりとした顔をしていた。
「いいんじゃねえか」
職業がら水仕事が多いはずなのに、トングを器用に扱う河村の手は、職人の道を歩み始めた10代の頃からずっと変わらない。荒れ知らずのきれいな手をテーブルの下に導き、亜久津は握った。
もうもうと上がる白い煙の向こうで、河村は眉尻を下げ、ちょっと笑う。
「……俺の代で潰さなくてよかったよ」
溜息とともに呟いた河村に、亜久津はサンチュに肉と唐辛子味噌とを片手だけ使って巻き、渡してやる。
河村がたった今吐いたのは、一聴すれば、単純な言葉だ。
親から継いだ店を、長年切り回してきた男。その男が引退を考えたとき、当然のように抱く感慨。
しかし、その胸のうちはきっと、言葉面ほど単純なものではないのだろう。
今日は七輪の鎮座する焼肉屋のテーブルだが、普段の食事は、自宅の居間に置かれた座卓で、互いに直角の定位置に座って食べる。
若い頃、亜久津は夜型の仕事をしていて、当時の2人の生活時間帯はずれていたが、40代で仕事を変えた後は、少なくとも1日2食をともにしてきた。
「うまいね」
亜久津から渡されたサンチュ巻きを頬ばりながら、河村は幸せそうに言った。
いつも2人で食事をしてきた。まるで、それが当たり前のように、焼けた肉を取ってもらったり、取ってやったりした。
自分の代で店を潰さなくてよかった、というのは、多分、その当たり前の影に隠れた河村の苦悩だ。
油のはぜるテーブルの下で、亜久津に握られた手を、そっと握り返してくる。
亜久津は、河村に盛大な乾杯をしてやるべく、店員を呼んだ。
「生大、2つ」
箸を持ったまま、Vサインのように指を2本立てる。
「俺、そんなに飲めないよ」
河村が慌てて言うのに、「お前が飲めなかったら俺が飲む」と凄むように返した。
翌年。
世間一般の定年より何年か余分に働いて、河村は仕事をやめた。
最後の日、亜久津は「かわむらすし」まで河村を迎えにいった。常連客からのプレゼントだという花束を抱え、店を出てしばらく歩いたところで、河村は振り返る。
「やっぱり、ちょっと寂しいね」
店の扉には、これで先々代となった河村の父親の頃から変わらない、店名を染め抜いた藍の暖簾が揺れている。
「寂しいが口にできりゃ上等だ」
「お前の場合は」と付け加えると、「そうかもね」と河村が笑う。
何もかも、これでよかったんだと思わせてやる、と。
その笑顔に、亜久津は誓った。
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えーと…60代中盤かな?のアクタカさんです。焼肉は、作中アクタカさんとほぼ同年代のうちの父が、先日バクバク食べていたので大丈夫だろう、と思うことにしました。
いろんなアクタカさんを書いていますが、どのアクタカさんも、最後にはここに辿りつく…はずです。この後の2人も考えていますが、どうしても死にネタになるので、おそらく書かないと思います。どうでしょう…?いつか書いてしまうかもしれませんが、現時点では、私の書くアクタカさんの、これが時的最後です。