「さりげなく」
普段から不規則な亜久津の生活リズムは、長期の休みになると更に乱れる。
明け方まで起きていて、夕方まで寝ていることも、その逆もあり、また、2、3日徹夜した後、まる1日昏々と眠り続けたこともあった。
春眠暁を覚えず、で始まる漢詩を、古典の授業など一度としてまともに聞いたことのない亜久津は知らないが、それでも何故かひたすらに眠い3月4月。春休みは、特に、睡眠時間の延びる方向でその傾向が強まった。
「いい加減にしなさいよ」
眠りこける息子が母親からそう言われたのは、もしかすると数日前のことだ。呆れたような優紀の声を、もはや遠い記憶の彼方のように感じ、さすがに寝すぎだ、と思ったのかもしれない。
泥の底から浮かび上がるように、ゆっくりと覚醒した意識で、亜久津には、今日が何日かも分からなかった。
最初に目に入ってきたのは、薄汚れた自室の天井。開け放たれた窓の向こうには、茫洋と広がる春の空が見えた。
目覚める直前、何か、子どもの頃にしか見たことのないような、ひどく幸せな夢を見ていたような気がする。五感の全てが、「甘い」と感じるような、そんな夢。
「起きたか?」
ベッドの上で半身だけ起こし、ぼんやりとしていると、窓と同じく開け放たれた部屋のドアの向こうから、やわらかな声がかかった。
夢の中で、確かに自分の傍らにあった声だ。
顔を上げると、見慣れない白のパンツ、次いでブルーのシャツが見える。その上には、見慣れた幼なじみの顔が、亜久津に向かって笑いかけていた。
目が覚めて、最初に亜久津がしたのは、今日の曜日を河村に確認することだった。
「月曜日だよ」
亜久津は、パジャマ代わりのTシャツとハーフパンツを、床に脱ぎ捨てながら歩く。それらをひとつひとつ拾って、洗濯籠に放りこみながら、河村が答える。
「月曜?」
亜久津の記憶が確かなら、月曜日は、「かわむらすし」の定休日ではない。居間のテレビをつけると、流れ出した通販番組で画面右上に表示された時計も、まだ正午を回っていなかった。
休み中はよほど大事な用でもない限り、毎日店の手伝いをしているはずの河村が、定休日でもない日のこんな時間、亜久津の家にいる。
「お前、こんなとこで何してんだ」
不審に思った亜久津に河村が返したのは、優紀ちゃんと入れ違いになったんだ、という答えになっていない答えで。
一瞬にして募った苛立ちに、思わずつかんだ河村の腕を体ごと引き寄せる。
見た目よりも軽い体は、少しの抵抗もなく亜久津の腕の中に収まり、フローリングの床に手もなく押し倒された。
妙だな。
硬い床の上で河村の衣服を1枚1枚剥ぎ取りながら、亜久津は思った。
河村が亜久津を拒まないのはいつものことだが、それでも何となく従順に過ぎる。
タレントが新商品に大げさな喚声をあげるのがうるさくて、つけたばかりのテレビを消すと、暗くなった画面に河村の姿が映りこんだ。こんなとき、いつもならせめて、ベッドに行こう、程度のことは言うのに。
仰向けに寝転んだ腰の上に跨らせ、ここでしてもいいのか、と問えば、河村が返したのは、汗で貼りついた前髪をかき上げ亜久津の額に落とされるキスだった。
妙だな、と思う亜久津をよそに、ことが済むと、河村は早々に衣服を身につけた。
床の上に脱ぎ捨てられた自分のシャツを拾い、ひとつひとつ、確かめるようにボタンをはめながら、腹減ってないか、と呟くように口にする。その表情には、やはり、妙な迫力が漲っていた。
亜久津が頷いてしまったのは、半ば条件反射のようなものだ。
「金ねぇぞ」
クローゼットを開け、河村のものと似ているような、似ていないようなシャツを選ぶ。風呂場に向かう亜久津の背中に、俺が奢るよ、と河村は、これも妙にきっぱりと言い切った。
表通りを並んで歩きながら、風を孕んだシャツの裾は、まるでヨットの帆のように膨らむ。
意外とよく似合う鮮やかな青を視界の端に入れながら、亜久津は、今日のこいつはどこか変だ、と思っていた。
街に出て食事を済ませた後、当然のように帰宅しようとした亜久津の袖を、河村は引いた。
「もし時間あったら、もう少し、つきあってくれないか?」
振り返ると、指の長い、そして指先の丸い河村の手が、上着の袖にかかっていた。控えめな、けれど決して亜久津の袖から離れない、その手の力に、河村だな、と何となく思う。
「何か、したいことあるか?」
問いかけの最後の「か?」、英語で言うなら付加疑問文の、まるで念押しのようなその語尾を、いつになくはっきりと河村は発音する。
何をそんなに、必死になっているのか。
少しだけ、おもしろがるような気分になって、亜久津は、紅潮した河村の頬に手をやった。
ぐるりと周囲を見る。
「あるぜ」
したいことなら。
囁くと、河村は、元から紅潮していた頬を極限まで赤くして、「ダ」と叫ぶように言って……口を噤んだ。
ダメだよ、と言いかけたのだと思う。
雑踏の中で、突然大声をあげた河村を、振り返りながら通り過ぎていく人がいた。河村は、それらの人々に視線を走らせ、頬にかかった亜久津の手を外そうとして、口を噤んだときと同じ、止めた。
「亜久津がしたいなら……」
してもいいよ。
そして、今にも消え入りそうな声で呟いた。
俯いていた顔が、再び上げられたとき、亜久津が目にしたのは、今日はもう何度目になるのか。あの、奇妙な迫力に満ちた河村の表情だった。
結局、その後、近くの映画館でなぜか某ネコ型ロボットの映画を観た。
冗談のつもりで、それがいい、と亜久津が言ったのを、河村が本気にしたのだ。
ポケットからひみつ道具を取り出し、ダメ小学生を励まし、今回は、魔法なんかも使ったりする。今日の河村の服装と、同じような色合いのロボットの活躍を、観客のほとんどを占める子どもたちが、歓声をあげながら見守る中、シアターの最後列に座った亜久津の手に、隣の河村は、入場者プレゼントだというプラスチック製の人形を握らせた。
「これ、亜久津の分」
そう言って、囁くように笑う。
バカにしてんのか、と凄めば、してないよ、と潜められた声の応えが返ってきた。
「俺、亜久津のこと、バカになんて絶対にしないよ」
亜久津には無縁の「絶対」という言葉が、河村にはよく似合う。
半分は今日の河村の、自分を振り回す奇妙さに対する意趣返しのようなつもりで、亜久津は河村にキスをした。唇が重ねられている間、河村は、じっと目を閉じて息を詰めていた。
夕方からは店の手伝いがあるらしい河村は、映画が終わった後、亜久津の家に戻ってしばらくすると、冷蔵庫の中見てね、と謎の言葉を残し、帰っていった。昼の手伝いは良かったのか、と亜久津の疑問は解消されないまま。
河村がいなくなると、急に家の中がしんとした。
再びの眠気に襲われ、欠伸をひとつ。ふたつ、みっつ、と連発しながら、台所へ行って冷蔵庫を開ける。眠い目をこすりながら見ると、何もないはずのその中には、紙袋がひとつ、鎮座していた。
それは、河村の家の寿司屋で、おみやげ用に使われている白い紙の袋だった。
中に入っていたのは、持ち手の付いたケーキの箱と、その箱よりひと回り小さな、これも紙袋。
思わずカレンダーを見る。
新しい1ページに変えられたばかりのカレンダーには、Aprilとアルファベットが5つ並んだ上に、4の算用数字。写真の中では、満開の
桜が川縁を飾っている。
そして、写真の真下、左端からひとつずれたところに、おそらく優紀がつけたのだろう、赤いマジックの大きな丸。
今日の河村の妙な態度、どうして、よほど大事な用でもない限り、店の手伝いを休まない河村が、今日は1日、亜久津の側にいたのか。
「バカか……」
口をついて出た言葉は、自分と河村の双方に向けられたものだ。
折り良くと言うべきか、折悪しくと言うべきか、ただいま、と帰ってきた優紀に、ハッピーバースデーと能天気に祝われた直後、すっかり眠気も吹き飛んだ亜久津は、宵闇の中、河村の家に向かって走り出していた。
盛大に誕生日を祝われるのを、嫌がりそうな亜久津に、よし、さりげなく祝おう、と思った隆。もっと空回ってもよかったかもしれません。
亜久津さん、誕生日おめでとうございます!そして、このみ先生、亜久津を描いてくださって、ありがとうございます!
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