とりあえずのアンサー




 昼夜の寒暖差が異様に激しくて、いよいよ日本も砂漠に近づいてきたと思う初夏。千石清純は、校門の脇に佇む1人の男子学生に目を留めた。
 山吹中学の白いそれとは違う、オーソドックスな黒い学生服の彼は、門柱の陰に隠れるように立っている。どう見ても日本人男性の平均を上回る大きな体が、門柱1本で隠れるはずもないのに。目立たないよう、身を縮めている様子が何だかおかしかった。
 背後からそっと近づいて、彼の制服が青春学園中等部のものであることを確認する。
 青学?と思わず声に出した千石を振り返った次の瞬間、
「千石君?」
 面識のない相手から、突然名前を呼ばれて、さすがの千石も驚いた。……いや、よくよく見れば、面識のない相手ではない。コートに立っているときとは、顔つきから雰囲気から違うため気づかなかっただけだ。
「……君は、河村君?青学の」
 先日の都大会では、決勝で新渡米と喜多のダブルスと対戦した、青春学園の河村隆だ。
 確か、と千石が付け加えたのに、コクンと頷く。その仕種が、自分よりも大きな男相手に何だけど、小動物めいている。


「身長何センチ?」
 垂直の半分ほど上へ向かう目線に、何となく聞いてみた。
 一面識もないわけではないけれど、それでも初対面に近い相手からの唐突な質問に、しかし、河村は戸惑う様子も気を悪くする様子もなかった。もしも青学テニス部の内情に詳しい者ならば、それは河村が個性の強すぎるチームメイトたちの中で何年も過ごすうちに、この程度の話題の飛び方には慣らされてしまったことを看破しただろうが、あいにく千石はそこまで事情通ではない。
 4月の身体測定で計ったときには、180センチだったという河村の答えに、今は、もう少し伸びているような気がするな、と感想を付す。どちらにせよ、実寸よりは小さく見えた。
 気は優しくて力持ちを絵に描いたような男。「少年」というよりは、すでに「男」という感じだ。
 持ち前の観察眼でもって、対峙して数分の相手に評価を下す。
 優等生とまではいかないけれど、真面目な男。
 だから、次の瞬間、河村の口から出た名前は、ちょっとどころではなく千石を驚かせた。


 案の定と言うべきか、校内に亜久津の姿はなかった。教室、屋上、校舎の裏、念のためにテニスコートと部室をまわって、戻ってきた千石は、河村に捜索の結果を告げた。
「亜久津に何の用だったの?」
 逞しい肩が目に見えて下がる。手間かけちゃってごめんね、と謝罪の言葉を口にする河村に、親切心と好奇心、2つに駆られて千石は尋ねてみた。親切心と好奇心、どちらかというと後者の方が強い。
 同じ都内にあるとはいえ、青学と山吹の間には結構な距離がある。かつて、千石も偵察と称して青学に行ったことがあるが、自分のような、いわば酔狂な部類の人間と河村はおそらく違う。用もないのに他校を訪れるようなタイプには、見えなかった。
 都大会前、亜久津が青学テニス部を襲撃したと噂に聞いた。もう少し正確にいえば、青学テニス部も、だが。まさか大会も終わった今になって、そのお礼参りというわけでもあるまい。それとも、大会が終わった今だからだろうか。
 お礼参りなどという物騒なことを企むようには、しかし、河村は到底見えなかった。
 何しに来たんだろ?
 河村が山吹中学を訪れた理由、亜久津との繋がりが分からない。
「あの、俺……」
 そのとき、しばらく黙っていた河村が、意を決したように口を開いた。
「俺、あ、亜久津とは家が近所なんだ」
 ためらいがちな言葉は、千石の疑問に答えてくれそうなもので、ああ、と思わず頷く。
「小学校が一緒だったんだ?」
「いや、小学校は違って……空手の道場が同じだったんだ」
 言われてみればいかにもだが、亜久津が空手をやっていたとは、千石には初耳だった。
 道場の友だち?と千石が聞くと、河村は、友だち……とはちょっと違うと思うけど、と首を傾げる。
「俺は友だちだと思ってたけど……亜久津は、違う、と思う」
 それはあるかも。
 訥々と語る河村を前に、千石は思った。本人の手前、口には出さないけれど、この彼が、あの彼と友情を結べるとは、とても思えない。


 しかし、友達ではないとすると、彼は一体、亜久津の何なのか。
 疑問は消えなかったけれど、あえて追及はしなかった。


 青学テニス部のロゴが入ったバッグを肩にかけ、俯いた河村の頭上では、街路樹の枝が穏やかな初夏の風に揺れる。成り行きで河村と一緒に下校することになった千石は、彼の頭越しに、日々色濃さを増していく緑を見上げた。
 見上げついでに目に入った河村の髪は、薄い茶色だった。ごく自然なその色は、たとえば亜久津の、白に近い銀に染められた髪とは違う。衣替え直前の学生服を、だらしなくない程度に着崩した河村の姿は、街路樹の揺れる穏やかな町の風景に、何気なく溶けこんでいた。


 亜久津を探しに行ったとき、たまたま教室に残っていた彼のクラスメイトによれば、亜久津はここ2、3日、学校へ来ていないらしい。
 学校を出て、電車の最寄り駅まで並んで歩く道すがら、千石がそのことを教えると、河村は深い溜息をついた。
「亜久津、何日か前から家に帰ってないらしいんだ……」
 呟くように吐かれた言葉の最後は、行き交う車の音にかき消されて、千石の耳まで届かない。
「お母さんも行き先知らないっていうし……。もし何かあったなら心配だなって。いや、今更俺が亜久津の心配ってのも変なんだけど……。学校で待ってれば会えるかな……って。いや、会ってどうするってわけでもないんだけどね……」
 思いつめた表情の河村は、しかし、なぜ、自分がそうまで亜久津のことを思いつめているのか、自身、戸惑っているようにも見えた。
「本当、俺が心配するのもおかしいんだけどさ……」
 心配。
 訥々と、河村が口にする中で、1つの言葉が千石の意識に引っかかった。
 なるほどね。
 思わず唇を舐めた。
 多分、それがキーワードだ。
 河村がどこまで知っているか分からないが、亜久津仁は、山吹中学では有名な「不良」である。2年の終わりに転校してきた彼は、出席状況、授業態度の悪さ、起こした数々のトラブルで、あっという間に校内でその名を知らぬ者はいない存在になった。
 校風はラフだが、あくまで私立の中学生らしい良い子の群れに、1匹だけ混じった毛色の変わった「不良」。
 山吹中学の中に、亜久津が、どうしてこの学校に入れたのか、また辞めさせられないのかに疑問をもつ者はあっても、今更、たかが家出、2、3日の無断欠席を不思議に思う者はいない。まして、心配する者など皆無だろう。
 河村は、亜久津のことが心配で、山吹中学まで訪ねてきた。
 2人の関係は相変わらず不明だったが、それだけは分かった。隣を歩く河村に罪のない笑顔を送って、とりあえずはそれで良しとした。






 もはや太古の都大会決勝直後。亜久津は出てませんがアクタカです。
 亜久津はタカさんの言うとおり、確かにタカさんのことを友だちだなんて思っていません。多分、久しぶりに登校して、千石から、お友だちの河村君が来たよ、なんて言われたら、ブチ切れてしまうでしょう。もっとも、かなり照れも混じっているような怒りですが。



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