春雨
天気の悪い日には、いつも不機嫌な亜久津の機嫌が更に降下する。
山吹中学の同級生、特に、短期間とはいえ籍が置かれていたため、多少とも亜久津と親しくなったテニス部員間では常識の事柄である。
その原因も周知で、要するに単なるニコチン切れだ。
亜久津のような、いわゆる不良少年定番の喫煙スポットといえば、校内では屋上や校舎裏。しかし、普段から人の寄らないそれらの場所は、基本的に屋根のない場所ばかりであり、雨天には使えない。
それならば、校舎の中で喫煙、ということになろうが、人目につきやすい屋内での喫煙が、教師に発見されるリスクの高いものであることは、亜久津とて承知だ。自分の素行については半ば諦め、指導を放棄している教師陣とて、校則どころか法律違反の現場を押さえてしまえば別で、意気揚々と処分に動くだろう。
亜久津は、重たい灰色の空を見上げ、舌を打った。
珍しく1時間目から登校している雨の本日、朝から1本も煙草を吸っていない。
少し前までの亜久津なら、親の呼び出しも自宅謹慎も、転校だって恐くはない、勝手にやってろであったが、今は違う。ほんの少しではあるけれど、変わっている。
亜久津が何か問題を起こすたび、亜久津本人以上にダメージを受ける人間が1人いる。母親の優紀ではない。彼女は、華奢な外見に似合わず中身はタフだ。
昼休み、さすがに限界だ、と階段の踊り場で、潰れかけた箱から煙草を1本取り出した。火をつけようとその先に近づけたライターが、ぎりぎりのところでふと止まる。
煙草とライターの間の距離はほんの数ミリ。その数ミリで、何かが亜久津を引き止める。
くだらねえ。
ライターを蓋を閉め、煙草と一緒にポケットにねじ込んだ。パチン、と殊更に大きな音をたてる。
雨の日の不機嫌は、原則として単なるニコチン切れが原因。原則と例外の狭間で、いつも自分を引き止めるのは、亜久津、と呼ぶ聞き慣れた小さな声だった。
階段をおりて、元から悪い目つきを極限まで悪くしつつ廊下を歩いていたら、千石に遭遇した。
亜久津を見つけて、わざわざ自分の教室から出てきたらしい。
「やあ、亜久津」
千石は、似合わぬ爽やかさでもって、胡散臭い挨拶を繰り出す。上げられた片手に向かって、亜久津が放った右足をきれいに避けた。
「亜久津が朝から来てるなんて珍しいね」
そう、珍しい。自覚していても、他人から指摘されれば無性に腹立たしい。
亜久津が今日、1時間目から登校などという千石に指摘されるまでもなく珍しいことをかましたのは、昨日の夜、突然家に泊まりにきた幼なじみのせいだ。
どこで聞きつけたのか、優紀の不在を知った幼なじみ―河村は、亜久津が朝、起きられないといけないから、と遅刻も早退も欠席も常習犯の亜久津には、まったく理解不能な理由で訪ねてきた。ご丁寧に夕食まで携えて。むしろ俺にとってはお前が据膳だ、と思いつつ、食事を済ませ風呂を済ませ、日付の変わる頃には河村は亜久津の横で、すうすうと平和な寝息をたてていた。
夜が白々と明けてくる頃、起き出した河村は、店の手伝いがあると家に帰った。ようやく寝られる、と一睡もできなかった亜久津がベッドに横たわって、戻ってきた河村に再び起こされたのがそれから3時間ばかり後。
「進学できなくなったらどうするんだよ」
言外に起床を拒んだ亜久津に、河村は言った。
卒業式が数日後の今になって、進学できないもクソもあるものか。
河村の微妙な世間知らずを嘲笑いながら、大きな体がみるみる縮こまっていくのに、何となく居たたまれないような気分になる。
ベッドから起き上がった亜久津を見て、河村は安心したように笑った。バカだと自分を罵りながら、結局、河村に勧められるまま、朝食まで食べて家を出た。
徒歩通学の河村と駅の前で別れ、そのまま家に帰っても良かったのに、亜久津は電車に乗った。朝のHRで、教室に亜久津の姿を見とめた担任教師は、驚きに息を呑んでいた。
くだらねえ上に、情けねえ。
昨日の夜から今朝にかけての記憶をかき消すように、亜久津は頭を振った。
気分でも悪いの?とかけられた千石の声は、明らかにおもしろがっている。亜久津の葛藤も何もかも、まとめて「おもちゃ」の一言で片づけそうな悪魔の声だ。近すぎる位置から覗きこんでくるオレンジ色の髪に、まだ何か用か、と顔を上げる。
「亜久津くんが、遅刻もせずに登校しました」
千石は亜久津の鋭い視線に怯む様子もなく、ニヤリと笑って廊下の窓を指した。あんまり珍しいから、と雨粒の叩きつける窓に触れるほどに指を近づけ、
「雨も降る」
本気でブチ殺してやろうかと思った。
ぼんやりと灰色に煙るような3月の空の、地上に近い部分だけが黄色みを帯びている。
失せろのひと言で千石を追い払った後、俄雨でもなさそうだ、と窓の外を見て、ようやく亜久津は気がついた。しかし、そのときには既に遅しで、駆けつけた購買のビニール傘は売り切れだった。
ニュースの天気予報では、午後から雨になると言っていたらしい。午後からの部分だけ外れちゃったわね、と購買のおばちゃんが、亜久津も含めて傘を買い逃した生徒たちを前に、気の毒そうに空を仰いだ。
そういえば、河村も出かける前、そんなようなことを言っていた。
「傘、持っていった方がいいよ」
そう言って、玄関先で、どこから見つけてきたのか亜久津に折りたたみ傘を差し出した。それを受け取らなかったのが、今朝、河村に対してできた唯一の抵抗らしい抵抗だったのだが、こうなると、良かったのか悪かったのか。
購買で売られていたビニール傘の最後の1本とやらを手にした生徒を横目で睨みながら、元々あんなダセェもん差す気もなかった、とイソップの狐のようなことを考えた。
午後になっても止まないままの雨は、放課後、ますます激しくなった。普段は柄の錆びたような傘で溢れている昇降口の傘立ても、今日の残数はゼロである。お前ら折りたたみくらい持ってこい、と自らを棚に上げて腹を立てる。
腹を立てながら、亜久津には分からなかった。どうして、こんなにも雨に濡れることを嫌がっているのか。
八つ当たりに空っぽの傘立てを蹴飛ばし、潰れたように曲がった金属に安堵する。まだ、これくらいのことはできる。そんなことを考える自分が情けなかった。
たとえば、1年前の亜久津なら、この程度の雨で傘を買うために購買へ走るなどという行動はしなかった。決してしなかった。この程度の雨、といっても、春雨といったら詐欺になりそうな雨足の強さだが、雨が嵐でも事情は変わらない。ずぶ濡れでも平気な顔で、外を歩いていただろう。
たとえば、雨に濡れて寒さを感じること、制服が泥などで汚れること、場合によっては風邪を引くこと。傘なしで雨に降られることにより起こる「嫌なこと」たちだ。しかし、その頃の亜久津には、そうした「嫌なこと」を避けようという発想がまずなかった。そもそも、嫌だと感じていたかどうかも疑わしい。
雨が降った、濡れるのは嫌だ、傘をさそう。
至極当たり前の発想、別の言い方をすれば健全な発想である。元々持っていなかったそれを、この1年の間で何が亜久津に与えたのか。正確には誰が亜久津に与えたのか。
「煙草は良くないよ」
「学校に行こう?」
「俺、亜久津が風邪引くの嫌だよ」
亜久津よりも少しだけ高い、柔らかな声が耳朶を打つ。
答えなど、最初から出ている。分からないと首を捻り、考える必要もなかった。
河村と一緒にいることで、自分の失っていくものは、突き詰めれば自由なのだと亜久津は思う。
校舎の中で煙草を吸うことも、二度寝をして学校をサボることも、雨の中を傘なしで歩くことも、1つ1つは小さいけれど、亜久津には、できないことが段々に増えていく。
春雨といえば細かく静かなものと相場が決まっているのに、3月の空からは、まるでスコールのような雨が降ってくる。
人気の絶えた昇降口で、ぼんやりしていても、亜久津に傘を差しかけてくる者のいるはずがない。いつのまにか背丈と悪名ばかり高くなった15歳は、舌打ちとともに校舎を出る。何かを振り切るように、どしゃ降りの中を、駅に向かって駆け出した。
規格外の身体能力で、人も自転車も、時には車さえ追い越して亜久津は走る。駅の構内に駆けこんだときには、白い制服は、布地が透けるほどに濡れていた。ちょうどのタイミングでホームに滑りこんできた電車に乗り、濡れた学ランの上だけを脱いで肩にかける。季節外れのノースリーブに、ワックスが流れたせいで下りた髪。電車の窓に映る姿は、たとえば河村と一緒に空手をしていた、小学生の頃とさほど変わらない。
電車を降り、改札を抜けたところで、スニーカーの紐が解けていることに気がついた。いつのまにか、雨足は大分弱まっている。
こんなことなら、もう少し学校で時間を潰していれば良かった。負け惜しみ気味に考えながら、庇の下で腰を屈めて靴紐を結び直す。普段革靴ばかり履いているせいか、亜久津は、実はあまり靴の紐を結ぶのが得意ではない。
「他は何でも上手なのに、不思議だね」
いつか、そう言いながら河村が靴紐を結んでくれたときのことを思い出す。
そのとき、亜久津、と頭上から降ってきたのは、雨ならぬ聞き慣れた声だった。
視界にかかった影に、顔を上げれば水色の傘。視線を少し下げれば、幼なじみの顔があった。
「河村……」
亜久津は呆然と呟く。どうして、お前がここにいるのか。
「亜久津、傘持っていかなかったから」
河村は、亜久津の足元にしゃがみ、見かけよりも器用な指で、解けたスニーカーの紐と、これも解けそうなもう片方の紐を結び直す。
「亜久津の家に忘れ物してさ、学校帰りに寄ったんだけど、誰もいなかったから」
誰もいない家の前で、亜久津が傘を持っていかなかった、と気づいたのが雨足の急に激しくなった約30分前。そのまま駅まで歩いてきて、亜久津を待っていたらしい。
靴紐を結び直し、立ち上がりながら、
「何か、懐かしいね」
その髪、と亜久津の額を覆う前髪に河村は少し笑った。
亜久津が電車に降りたときよりも更に弱くなった雨は、ようやくの春雨らしさで、まるで霧のようなその中を並んで歩く。大通りではなく、生垣の沈丁花が強く匂うような住宅街の細い道。近道ではなく、むしろ回り道だ。
待っているなら待っているで、電話の1つもすれば良いのに。
憮然とする亜久津に、そういえばそうだね、と河村は頷く。まったく思いつかなかったらしい。
「河村よぉ……」
「うん?」
たとえば、河村は、考えなかったのだろうか。亜久津が、今朝、河村と別れた後、学校には行かずどこかに遊びに行っている可能性を。あるいは、いったん登校しても、途中でフケて、やはりどこかに行っている可能性を。亜久津の待ちながら、待っていても無駄になる可能性を、このお人よしの幼なじみは、一度も考えなかったのだろうか。
「……やっぱいい」
覗きこんでくる河村の、無心な丸い目から視線を逸らす。聞いてみるまでもなかった。嬉しそうな顔で、水色の傘を差しかける。お人よしの河村は、亜久津を濡らすまいとするあまり、自分の肩が濡れている。脱力して、その場にしゃがみこみたいような気分になった。
無駄足なら無駄足でかまわない、という顔だ、これは。
結局、河村のこういうところに、自分は弱いのだと思う。弱いのは嫌いなのに弱くて、負けるのは嫌いなのに負けて、考えるまでもなく変えられて、自縄自縛で出来ないことが増えていく。雨に濡れることを「嫌」だと感じるのは、差しかけられる傘の優しさを知ってしまったからだ。
「何だよ?途中でやめられたら気になるよ」
言葉とは裏腹に、問い詰める気もなさそうな河村に、何もかもお前のせいだ、と言ってしまえたら、どれほど楽だろう。
「亜久津?」
不思議そうな顔をする河村の手から、亜久津は傘を奪った。傘の柄はまっすぐに、2人の距離を詰める。イーブンで差すのが、両者とも濡れない1番の方法だ。うっかりすると河村の肩でも抱いてしまいそうな片手を、制服のポケットに突っこんだ。
河村と一緒にいると、時に耐えがたいほど苦しいのに、なるべく長く、出来ればずっと一緒にいたいと感じる。これは一体どういうことだ?と疑問を河村にぶつけてしまえたら。
歩き出してしばらくすると見えてきた自宅に、惜しいな、と亜久津は呟く。そうだね、と小さな声が答えたのを、とりあえず今は聞こえない振りをした。
靴紐が結べなかった亜久津、と通りがかり青学の人々が。
亜久津のGET FREEの1番大きな障害が隆、という話。自由とタカさんを天秤にかけたら、最終的には亜久津はタカさんを選ぶと思います。高校卒業後、タカさんの前からいったん姿を消す亜久津、という話を以前このサイトで書きましたが、それがそんな話……になるはず続きが。
全面改稿しました。
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