長生きするから 2
その感覚を、一体どう表現したらいいのだろう。
久しぶりに会った河村は、記憶にあるよりも少しだけ痩せて、でも、他には何ひとつ見た目に変わったところはなかった。
見た目ばかりでなく、中身も。相変わらず優しくて、気が利いて。相変わらず、不二の好きな彼だった。
ただ、笑い方が少し、ほんの少しだけ、違った。
眉尻を下げて、困ったな、と笑う。照れるな、と頭を掻く。
細められた目が少し、ほんの少しだけ、虚ろだった。目の前にいる自分のことを、見ているようで、見ていなかった。
そんな河村は、初めてだった。いつのまにか長くなったつきあいの中でも、見たことがなかった。
不二周助は高校卒業以来、久しぶりに「かわむらすし」の暖簾をくぐった。
家から乗ってきた車を、店の裏手に停める。
見上げた空は、8月の曇天。念のため持ってきた傘をどうしようか迷って、結局トランクに放り込んだ。
不二は、大学入学と同時に、アルバイトを始めていた。将来、自分の好きな写真に関係した仕事に就くための勉強も兼ねて、デザイン事務所。姉の知り合いを紹介してもらった。社員は泊り込み、徹夜が当たり前の職場である。バイトとはいえ、大学の講義にも出席しなければならない不二の生活は4月以来多忙、心身は疲労を極めていた。
そういえば、卒業式から、一度も河村の顔を見ていない。
そのことに気づいたのが、多忙さは相変わらずではあるものの、新しい生活に体が馴染んで、以前ほどの疲労は感じなくなった8月、10日前のことだ。
その日、不二は久しぶりの休日を自宅で過ごしていた。
リビングでカメラの手入れをする息子に、母親は近々、来客の予定があることを話した。
「和食が好きな方なのよ」
母が困った顔をするのに、珍しいな、と不二は思った。
不二の母親は、料理上手である。ただ、どちらかといえば得意なのは洋食。
(和食が好きというより、和食しかダメな人なんだな)
キッチンに立つ母の表情から不二は悟る。
「煮物…煮物じゃあメインにはね…」
呟きながら、冷蔵庫や戸棚を無意味に開けたり閉めたり。どうやら、本格的に困っている。
「じゃあ、母さんの手料理の他に、お寿司なんて取ったらどうかな?」
息子に似て、というか、この場合は息子が彼女に似ているというべきか、あまり感情が面に出ないタイプの不二の母親は、実は相当に煮詰まっていたらしい。不二の提案をあっさり受け入れた。
店の決定も注文も引き受け、不二は迷わず、「かわむらすし」に電話をした。
「毎度ありがとうございます。『かわむらすし』です」
電話をとったのは、河村の母親らしかった。
やわらかな女性の声を耳にして、ちょっとした悪戯心が芽生える。
注文の後、名前と自宅の電話番号、それから、注文の品は出前ではなく自ら店に取りに行く旨を伝えた。電話を切った後、受話器を持ったまま、ちょっと笑った。
不二も河村も、一応は最近の若者らしく、互いに連絡を取りあうときには、もっぱら携帯電話を使う。
果たして彼は、「フジ」という名前と、自宅の電話番号だけで自分だと気づくだろうか。
夕方からの営業が始まったばかりの店には、カウンターにひと組、テーブル席にひと組、いずれも男性客の二人連れが座っている。
不二は、河村の父である「かわむらすし」の大将に促され、カウンターに着いた。
「待っててな。今、隆が包んでるから」
大将はそう言い、不二の前にお茶を置く。
「不二」
やがて、厨房から、風呂敷に包んだ寿司桶を片手に、河村が出てきた。
「タカさん」
「はい、不二。これ」
渡された包みは、丸い桶の上に、プラスチックのパックが乗っている。
「わさび寿司?」
包みを受け取りながら、不二が聞くと、
「うん。俺が作ったから、味の保証はしないけど、サービス」
ここで菊丸あたりならば、ウインクのひとつもしてみせるのだろうが、彼の性格でそれはない。
「注文、僕のうちだって分かった?」
「すぐ分かったよ。不二っていったら、不二しか思い浮かばないもん、俺」
そう言って、照れたように笑った。笑うと、常にも増して眉が下がり、不二の好きな河村の顔になる。
今も……
あれ?
そのとき、かすかな違和感を覚えた。
「タカさん」
「ん?何?」
店の裏に停めた車まで、河村が荷物を運んでくれる。
前に立つ河村を、不二は呼んだ。振り向いた河村は、やっぱり笑顔だ。
でも、何か違う。
不二は思った。
半年前、卒業式を間近に控えた一時期、不二は毎日のように学校にカメラを持参し、仲の良かった同級生たちの写真を撮った。普段あまり人物写真は撮らないが、そのときは何となく、そんなことをしたい気分だった。
撮影した何人かの中には、当然のように、河村も含まれている。
河村を撮ったのは、学校の中庭だ。連翹の花がこぼれるように咲いているのをバックに、河村は、困ったなあ、という顔で笑っている。淡い黄色の花の群れに、そのまま溶けていきそうな河村の笑顔を、ファインダー越しに不二は見つめた。
見つめながら、この笑顔をずっと忘れないでおこう、と思った。
そんな不二だから、気づいたのかもしれない。
今の河村の笑顔は、そのときの河村の笑顔と、どこか違う。
どこがどう、とは言えない。もともと不二は、物事を直感的にとらえることが得意で、説明や証明は苦手だ。
それは、自分でなければ見逃してしまうような小さな、でも、確かな違いだった。
「タカさん、修行大変?」
河村は、車の助手席に荷物を積みこんでいる。白衣の背中に不二は問いかけた。
中学のテニス部で、不二は河村とダブルスを組んでいた。後衛では、いつも彼の広い背中を視界に入れながらプレイをした。不二の記憶にあるよりも、幾分か細くなったその背中。
「覚悟していたことだからね」
河村は、不二の方を振り返らないままに答える。助手席に荷物を積み終えると、車のドアを閉め、空を仰いだ。
「覚悟」
つられるように、不二も空を見た。
黒々とした雲に覆われた、重い空だった。
「うん」
河村が頷く。
「ああ、でもそうだな。きちんと覚悟はしていたつもりだったんだけど、やっぱり実際に起こっちゃうとキツイかな」
「タカさん」
背中が揺れる。不二は、思わず目の前の腕を取っていた。
「ごめんね。変なこと言って」
心配しないで。
そう言って河村は、不二の手を自分の腕から優しく外す。振り返った彼の目に、不二は映っていなかった。
数か月ぶりに会った、河村は優しかった。「フジ」の電話を、きちんと不二からだと分かってくれたし、不二の好きなわさび寿司も作ってくれた。
彼は優しい。
2人の関係は、河村が中学でテニスをやめ、高校に進学した後も変わらなかった。偶然、1年生で同じクラスになったから、ということもある。河村と不二は、互いにごく親しい友人の1人として、高校3年間を過ごした。
不二にとっての河村は、性格も趣味もまるで違うけれど、穏やかな時間を共有できるという意味で得難い相手である。
不二には、どうしてかいつも彼の気持ちがよく分かった。河村も、意識してかそうでないのかはともかく、なぜかいつも自分の気持ちをまるで読んでいるかのような行動をとった。
この人は、他の誰とも違う。そう感じられたときには、自分たちはパートナーだから、と言って、笑い合ったりもした。
2人の関係は、数か月前、同じ学校に通っていたときと何も変わっていない。
それなのに。
河村は、変わってしまった。どこがどう、とは言えない。でも、何か違う。
それだけは、と自分で持っていた、わさび寿司の包みがズッシリと重くなったような気がした。
もしかして、タカさんは、修行にかこつけて別のことを言っていたんじゃないだろうか。
帰り道、車を走らせながら不二は思った。
覚悟。
河村は、何を覚悟していたというのか。何が彼に起こったというのか。知りたいような、知りたくないような、複雑な気分だった。
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亜久津がいなくなったとき、タカさんは、すごーく分かりにくい荒れ方をするんじゃなかろうか、と考えて書きました。態度なんかには表れなさすぎて、気づかれにくい。家族以外で唯一気づいてくれそうなのが、不二だと思います。
亜久津のタカさんに対する愛が、手に入れたい、自分のものにしたい愛だとすれば、不二のタカさんに対する愛は、タカさんがタカさんであってくれればそれで良いというか、そういう愛。思い切り夢を見ています。
何となく、不二って他人の中に自分と同じもの、自分と似た部分を感じたとき、その他人に興味を抱きそうな気がします。手塚やリョ一マに対する不二の関心は、まさにその最たるものでしょう。
タカさんの場合は、普段割と穏やかで、でも、テニスに対しては熱いところに。ただ、テニスに対して熱い、といえば、テニプリの登場人物はほとんど例外なくそうなわけです。不二は、タカさんのテニスに対する熱さ、思いの強さの裏に、そのためなら自己犠牲も厭わないような、何と言ったらいいのか、危うさのようなものを感じ取ったんじゃないでしょうか。不二といえば、笑顔の奥に秘められているのは修羅なわけで、これは危ない。テニスに限らず、自分がこれと決めた大切なもののためなら、割とあっさり破滅的な行動を取りそうな部分が、この2人は似ているな、と思います。
テニプリのダブルスの中では、一番好きな組です。