Starting over 1


 久しぶりの汗をかいた肌に、夕暮れの風が心地よい。
 真田に破れたショックからどうやら立ち直ったらしい越前を1人残し、亜久津はテニスコートを後にする。
 川の向こうに、高架橋を渡る列車が見えた。
 越前が、自分と、おそらくはもう1人の背中に頭を下げている。振り返らなくても、気配でわかった。
 堤防の階段を上がると、そこには河村が待っていた。



「ありがとう、亜久津」
 今日、亜久津がしたのは、かつての対戦相手を自分のプレーで励ますという、およそ亜久津らしくない、スポーツマンシップにあふれた行為だ。
 亜久津自身がどう思っていようと、客観的にはそうに違いなかった。
 似合わないことをした。自覚は、ある。
 けれど、河村は、そんな亜久津を少しも茶化したりしなかった。
 礼を言われて、顔には出さなかったけれど、亜久津は驚いた。そういう奴だと知っていたはずなのに。
「勘違いすんなよ」
 驚きついでに、返した悪態。それが虚勢であることなど、きっと河村にはお見通しだろう。
 叩きつけるようにラケットを返し、預けていた上着を奪うように取り上げて、数歩、歩いたところで亜久津は立ち止まる。

 越前は、川原のテニスコートで、亜久津が去った後も1人、練習を続けている。ラケットがボールを打つ、力強い音が聞こえる。
 その音に耳を傾けながら、亜久津は目を閉じた。
 そのまま待っていると、河村が、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。

 ノースリーブの肩に川べりの風は涼しく、しかし寒いというほどではない。亜久津は、河村に向きなおり、肩にかけていた上着を、
「持て」
と差し出した。
 差し出された上着を受け取って、丁寧にたたむ。亜久津は、河村の肩にかかったラケットバッグを指さした。
「それ、貸せ」
「でも…」
 河村の眉毛は8時20分。これが地顔なのだから、たちが悪いと思う。
 亜久津は、困り顔の河村を見ないように視線を逸らしながら、多少強引にバッグを取り上げた。
「帰るぞ」
 踵を返し、再び歩き出す。
 高架橋を列車が渡る。越前がボールを打つ。重い音、軽い音、そのどちらの音も遠く感じた。
 やがて、歩調を緩めた亜久津に河村が並んだ。
 横顔をじっと見る、亜久津の視線に気づくと、河村は、相変わらず困ったような顔のまま、笑った。

 河村は、亜久津の幼なじみだった。まだ2人が小学生だった3年前、同じ空手道場に通った仲だ。
 自宅は近所で、道場をやめて会わなくなってからも時々、亜久津は河村の姿を見かけた。河村が気づいていたかは分からない。
 亜久津と河村は、幼なじみだった。友だちにはなれなかった。
 いつだったか、いつだって能天気な千石に、
「君らは、あのとき、友だちになっておくべきだったね」
と言われた。
 言われたときには頭にきて、思わず足が出ていたが、そしてその足は千石に避けられたが、後から考えると、あの、もしかしたら能天気を装っていたのかもしれない千石の発言は、確かに、亜久津の痛いところをついていた。

 亜久津と河村は、幼なじみだった。けれど、友だちにはなれなかった。
 思い出した。亜久津はずっと、河村の、自分に向けるこの笑顔が恐かったのだ。少しの困惑を滲ませて、でも、結局、いつも亜久津の何もかもを許すように笑う。亜久津は、その笑みを見るたび、河村の優しさに、侵食されるようで恐かった。
 ズボンのポケットに突っ込んだ、手の指先が冷たかった。そのときになって、亜久津はやっと、自分がひどく緊張していたことに気づいた。



 なあ、河村。
 隣を歩く河村に、亜久津は口に出さす問いかける。
 俺は、お前が恐かった。
 おそらく、都大会で越前に負ける前の亜久津だったら、認めることはできなかったに違いない。

 都大会の少し前、亜久津は、河村と再会した。
 久しぶりに間近で見た河村は、背丈こそ伸びていたものの、顔立ちは、亜久津の記憶にある小学生時代とあまり変わっていなかった。
 あえて変化したところをあげるとすれば、昔よりもまっすぐに亜久津を見るようになった目だろうか。河村の大きな瞳に映る自分を、亜久津は直視することができなかった。

 そして、都大会。
 一度でも自分が何かに負ければ全てが終わる。そう思っていた世界は、けれど、亜久津が越前に敗れても、何も変わらなかった。
 試合の後、河村と2人で話す機会があった。
 生まれて初めて敗者となった亜久津に河村は優しく、亜久津は、自分は河村のこういうところが、たまらなかったのだ、と思った。
 悟った、と言っても良い。

 亜久津が負けても、河村は変わることなく、亜久津に向かって笑いかける。
 まだ、誰にも負けたことのなかった数年前の亜久津は、河村と出会ったとき、すでにそのことを予感していた。だからこそ、亜久津には、河村の優しさがたまらなかった。
 この優しさに身を委ねれば、自分は二度と1人で立つことができなくなってしまう。そんな予感が、確かにあった。
 亜久津は河村を遠ざけ、彼から逃げた。

 越前に負けて、まるで憑物が落ちたようだった。
 生まれて初めての敗北の後、改めて河村に相対した亜久津は、自分がずっと河村に怯えていたことに気がついた。そして、同時に、今はもう、怯えていないことにも。
 亜久津は、初めて河村の目をまっすぐ見つめることができた。
「負けんなよ」
 言葉は、自然に口をついて出た。



 なあ、河村。俺は、ずっとお前が恐かったんだ。お前が俺に優しいのが、たまらなく恐くて…
 亜久津は深呼吸を一つする。
 たまらなく、好きだった。
 にじむような夕暮れの中を、亜久津は河村と並んで歩いていた。
 片手に提げた河村のラケットバッグが、重いような、軽いような、不思議な気分だった。
「なあ、亜久津。この後、うちに寄っていけよ」
 河村が言った。
「うちで一緒に夕飯を食べよう」
 立ち止まり、振り返る。薄闇の遊歩道に、小さな亜久津と小さな河村が並んで立っている。そんな幻を見た、ような気がした。
「亜久津?」
 突然、立ち止まった亜久津を、河村が呼ぶ。8時20分の心配顔だ。
「ああ」
 頷いて、再び歩き出す。
 この場所から、もう一度始められる。亜久津は思った。河村との関係を、初めから、もう一度。
 そんな気がした。




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 初めてのアクタカ。青春もの!という感じで。この話は亜久津視点ですが、タカさんも亜久津と同じく、(乱暴だから、という理由ではなく)亜久津がたまらなく恐くて、けれど、たまらなく好きだった、というのが、私の脳内設定です。たまらない、で書きながら真田を思い出しました。たまらんスマッシュ。しかし、亜久津が必要以上に弱々しいですね。

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